進藤長之
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進藤 長之 (しんどう ながゆき、生年不詳 - 享保12年(1727年))は近衛家諸大夫をつとめた青侍(皇族や公家に仕える武士)。官位は正四位下刑部大輔。一族に赤穂藩士の進藤源四郎俊式がおり、山科在留中に大石内蔵助とも関係を持ったという。
青侍の進藤主計頭長昌(輪王寺宮守澄親王の家臣)の次男として誕生。父長昌の母は大石内蔵助良勝(良雄の曽祖父)の娘。長昌の跡は長男の泰通が継いだため、長之は親戚で近衛家家臣の進藤筑後守長房の養子に入った。その後、近衛基煕・家煕・家久の三代にわたって近衛家に仕えた。摂関近衛家の諸大夫であるため天皇よりしばしば官位を下され、延宝八年(1680年)には正六位下修理大進に叙任し、修理亮任官をへて、元禄14年(1701年)には正五位下刑部大輔に補された。
また浅野長矩の刃傷のあった同年3月には勅使の柳原資廉、高野保春らにお供して江戸へ下向していた。刃傷の後、京都へ戻った長之は、主の近衛基煕に刃傷の経緯を報告し、さらに近衛から東山天皇に報告された。しかし近衛基煕日記を見ると、近衛も天皇もこの事態を喜んでいるような異様な反応を示している。
これと何か関係が有るのか、長之は赤穂城開城後に親族の赤穂藩士進藤源四郎俊式を近衛家領の山科(進藤長之が管理していた)へ迎え入れた。また赤穂藩政の残務処理が終わった後の大石内蔵助も山科へ入れている。しかし大石が山科から江戸に下向したとき、この長之に金の無心をしたが、長之からは断られ、あとで敵討ちのためだったと知ると、長之は金を貸さなかったことを後悔したという逸話が伝わっており、この逸話が事実なら長之は仇討ちについては何も知らなかったことになる。逆に金の無心をする相手ならば、かなり大石に親身に接していた人物だったであろうともいえる。果たして長之がどの程度関わっていたのかは判らない。
元禄16年(1703年)に従四位下。宝永5年(1708年)に従四位上。さらに享保元年(1716年)には正四位下となる。享保10年(1725年)に隠居して落飾し、鴨河西涯三本木に移った。享保12年(1727年)に死去し、浄華院に葬られた。法名は云云庵淡水一葉という。享年63。