趙朔
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趙朔(ちょうさく、? - 紀元前598年)中国春秋時代の晋の政治家。姓は贏、氏は趙、諱は朔、諡は荘。趙荘子とも呼ばれる。趙盾の子。
趙盾は死後、趙家の宗主の座を恩義のある趙姫の子の趙括に継がせるように計らったが、趙括とその兄の趙同は揃って人徳が無く、一族の輿望は徳のある趙朔に集まったので、実質的には趙朔が当主となり、卿の位を得るに到った。
紀元前597年の邲の戦いの時は、趙朔は下軍の将として従軍した。しかし、戦いに利あらずと、下軍の佐の欒書の撤兵論に賛成するが、趙朔の人気に嫉妬していた叔父の趙同・趙括兄弟が戦争継続を主張した為に、やむなく戦闘に参加する。そして、楚軍の猛攻による中軍の崩壊があまりに早かった為に、その攻撃を防ぎきれず、下軍は全滅してしまう。
この敗戦以降、晋国内における趙家への風当たりが厳しさを増し、この状況を憂えた韓厥から亡命を進められるが、「あなたが趙家の祀りを守ってくれるのなら、何も恨みは無い。」と拒否した。
そして紀元前598年、司寇屠岸賈によって、かつて一族の趙穿が霊公を殺した罪を問われ、叔父の趙同・趙括兄弟の援護を得られぬまま、一族もろとも皆殺しにされる。
当時母の胎内にいて、ただ一人難を逃れた趙朔の子趙武は、後に屠岸賈に復讐して趙家を再興し、晋の宰相となった。