豊後国分寺
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豊後国分寺(ぶんごこくぶんじ)は、豊後国(現在の大分県)に建立された国分寺。大分市大字国分に位置し、現在は醫王山金光明寺として存続している。また、古代豊後国分寺の遺構は、豊後国分寺跡として、1933年2月28日に国の史跡に指定されている。
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[編集] 概要
[編集] 歴史
全国に国分寺建立の詔が発せられたのは天平13年(741年)であり、『続日本紀』で天平勝宝8年(756年)に灌頂幡などが下賜されたと記載されている26か国の国分寺の中に豊後国分寺が含まれていることから、天平13年(741年)から遅くとも天平勝宝8年(756年)までの間に建立されたものと推定されている。『豊後国風土記』の大分郡条には「寺二所僧寺尼寺」と記載されているが、同書は国分寺建立の詔以前の天平12年(740年)頃までに成立していたと推定されるため、この「僧寺」は豊後国分寺を指すものではないと考えられている。
鎌倉時代の仁治元年(1240年)には、大友氏が西大寺より忍性上人を請来し中興開山としたとされる。しかし、府内(中世の大分市)は1586年(天正14年)に島津家久により焼き討ちに遭い、その際に豊後国分寺も廃寺となった。
その後、延宝3年(1675年)に再興が始まり、元禄7年(1694年)に本堂が完成している。現在の寺院は天台宗に属し、醫王山金光明寺と号する。
[編集] 古代の豊後国分寺
近年、古代の豊後国分寺の遺構の発掘調査が進められた結果、豊後国分寺は、東西183m、南北300mに及ぶ南北に細長い寺域に、中門、金堂、講堂、食堂が南北に並び、金堂の南西に七重塔が位置する大官大寺形式の伽藍を有していたことが判明している。
現在、観音堂がある場所に塔基壇が、薬師堂がある場所に金堂跡が発見されている。塔は七重塔で、礎石から復元すると周囲18m四方、高さ60m余という巨大な塔であったと考えられ、全国に64ある国分寺の中でも3指に入るとも言われる[1]。また、金堂は南面し、正面七間、奥行四間であったと推定されている。
講堂跡と食堂跡は基壇が整備されて豊後国分寺跡史跡公園になっている。また、隣接地には大分市歴史資料館が建設され、豊後国分寺の七重塔の復元模型や豊後国分寺からの出土品などが展示されている。