谷戸城
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谷戸城(やとじょう)は、山梨県北杜市大泉町(旧北巨摩郡大泉村谷戸城山)にあった城郭。形式は山城。国指定史跡。
県北西部に位置。八ヶ岳の山体崩落で形成された尾根上に立地し、標高は850m付近。地形を利用して同心円上に土塁や空堀を配した輪状郭群。東西を東衣川、西衣川に画され、北側は尾根に通じ三方は急崖に囲まれている。
平安時代には常陸国那珂郡武田郷から源義清・清光親子が甲斐国市川荘(市川三郷町、旧市川大門町)へ流罪される。逸見荘へ拠った逸見清光(冠者)の子孫は甲斐国各地で勢力を拡大し、甲斐源氏の祖となった。谷戸城は清光の居城と伝わり、江戸時代に成立した『甲斐国志』によれば清光は正治元年(1199年)に城内で死去したという。『吾妻鏡』の治承4年(1180年)9月15日条に拠れば、武田信義ら甲斐源氏一党は源頼朝の挙兵に際して「逸見山」に集結し頼朝からの使者を迎えたとあり、北杜市域に複数候補のある逸見山所在地のひとつと考えられている。
戦国時代には武田晴信 (信玄)期の信濃侵攻に際して侵攻ルートの中継地点になっていたとも考えられており、家臣駒井政武の日記『高白斎記』の天文17年(1548年)9月6日条に拠れば「矢戸御陣所」の記述がある。また、『国志』によれば武田氏滅亡後の遺領を巡る天正壬午の乱に際しては、天正10年(1582年)に徳川氏と甲斐領有を巡る相模国の後北条氏が入ったといわれる。文政8年(1825年)の村方明細帳にも記録が残る。
江戸時代から城跡と認識されており、1976年には山梨大学考古学研究会による測量調査が行われる。1982年(昭和57年)には一部の発掘調査が実施され、掘跡など一部の遺構が確認され、青磁片や内耳土器、洪武通宝などの遺物が出土している。
北東や西側は内部に横堀を伴う土塁があり、南斜面には帯状の郭が数段にわたって広がり、防御施設が集中している。北は方形の平坦地が開け、内部には三角形の主郭部がある。
谷戸城は地域振興に際して注目されはじめ、1993年(平成5年)11月29日に国の史跡に指定され、1999年(平成11年)までに公有地化が行われる。出土遺物は大泉歴史民俗資料館に所蔵されている。