西園寺実晴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西園寺実晴(さいおんじさねはる、慶長6年(1601年) - 寛文13年1月11日(1673年2月27日))は江戸時代の公家。内大臣西園寺公益の子。礼学・絵画を好み、1667年左大臣まで上った。
西園寺家は、藤原氏の流れを汲む公家。藤原氏北家閑院流で、家格は清華家。洞院家、今出川家、菊亭家は西園寺家の分家である。実晴はその西園寺家の21代目であり、西園寺家から就任した左大臣としては6人目。
1619年(元和5年)7月13日任参議、内大臣・右大臣・従一位左大臣を歴任。 1651年(慶安4年)に朝廷は徳川家光に対して太政大臣・正一位の追贈と大猷院の謚号を決め、内大臣西園寺実晴を勅使として日光に派遣している。1672年(寛文12年)に出家して大忠院入道と号し、法名は性永。
正室(御台所)は細川氏細川忠興とガラシャの嫡男・細川忠隆(1604年廃嫡後は長岡休無と号す)の長女・徳姫(1605-1663)であり、京都在住の休無から助成金が毎年西園寺家へ贈られている。また休無遺産として600石が徳姫(西園寺家)に相続された(綿考輯録より)が、600石は西園寺家石高の大部分を占めており西園寺家財政の基盤となった。
子は22代目となった公満のほかに、公遂、公宣(別名公義又は随宜)。 なお、末子の西園寺公宣は京公家生活を嫌って、長岡休無の子の長岡忠春(1622-1704年、細川内膳家祖)を頼って肥後に移り住み菊池(現熊本県菊陽町)で死去したが、そこで生まれた娘(須也姫とも安姫とも言う)が京に戻って婿を取り西園寺家を継いだ。