藤原宗忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
---|
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
藤原宗忠(ふじわら の むねただ、康平5年(1062年) - 永治元年4月20日(1141年5月27日))は、平安時代の公家。別名、中御門宗忠。
藤原北家道長の次男頼宗流の大納言藤原宗俊の長男で母は藤原実綱の娘。最高官職は従一位右大臣。 弟に宗輔がいる。子には宗能、宗成、宗重らがいる。日記『中右記』を残した。名称の由来は中御門右大臣の日記から。 音律に関する著書『韻花集』『白律韻』などは現存していない。和歌は『続古今和歌集』『玉葉和歌集』に入集。
[編集] 経歴
- 4月21日:修理左宮城使に任命
- 康和2年(1100年)
- 康和4年(1102年)
- 1月5日:正三位に昇叙
- 康和6年(1104年)
- 権大納言に任官
- 従一位に昇叙。右大臣に任官
- 永治元年(1141年)
- 薨去。享年79
[編集] 史的立場
摂関政治から院政への過渡期の公卿として、その時代の動きや自身の身辺での出来事、また、重要な人物との接触や、その活動についての自身の意見や評価を日記として残し、その時代をつかむ上で重要な史料を後世に提供した重要人物である。
源義家の活動やその評価などは当時の人々の感想として貴重。特に、摂関家の内紛や院政に対する批判や批評を行い、源氏の内紛、平家の台頭に関しても貴重な史料を残している人物で、その日記、『中右記』は平安時代後期の趨勢を知る上で貴重な史料。