菊間町
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菊間町(きくまちょう)は、かつて愛媛県の東予地方(越智郡)にあった町。
2005年1月、今治市と菊間町を含む越智郡11か町村との新設合併により、新:今治市の一部となった。古くから菊間瓦の生産で知られるほか太陽製油の製油所があり、製造品出荷額も多い。
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[編集] 地理
[編集] 位置・地形
松山と今治の中間、やや今治寄りに位置。
特に急峻な山はなく、ゆるやかな丘陵地が広がっており、みかんの果樹園や里山等として利用されている。主要集落は海岸に沿って走る国道196号やJR予讃線の沿線及び菊間川とその支流の中下流域に開かれている。
[編集] 気候
温暖寡雨であり、台風等の災害もほとんどない。
[編集] 歴史
- 1890年(明治23年) 町村制施行により菊間川流域の下流に位置する3か町村(菊間・長坂・浜村)が合併「菊間村」となる。
- 1908年(明治41年) 町制施行、「菊間町」となる。
- 1925年(大正14年) 歌仙村を合併。
- 1955年(昭和30年)亀岡村と合併。
- 2005年(平成17年)1月16日 今治市と越智郡11か町村の合併により、新:今治市の一部となり、消滅。
[編集] 行政
[編集] 合併の経緯
- 菊間町と隣接する大西町・波方町の3町で構成される越智郡陸地部のうち西に位置し、瀬戸内海・斎灘に面している地域では市町村合併の枠組みとして2通り考えられた。一つは、三町に玉川町・朝倉村も加えた越智郡陸地部全体で今治市と合流するという考え方である。もう一つは、三町で合併するという考え方である。
- もともと、菊間町にとっては、人口は8000人あり、財政力もまずまずであり、越智郡の他の町村ほど合併に切迫感がなかったうえ、越智郡の一番西部に位置することから、なるべく「端」にならない組み合わせがよいとの考えがあった。前者は、市の西端になるから不利であり、後者なら一定の発言権は確保できるのではないかとの思いもあった。
- このため、今治市と越智郡の組み合わせからいったん離脱。
- 三町での合併を探ろうとしたが、残りの二町は翻意せず、結局、他の市町村に迷惑をかけたと町長・議長とが法定合併協議会の場で連名で陳謝したうえ、今治市を中心とした合併協議会に合流した。
- 合併直前の町体育館等の整備が「駆け込み」事業ではないかとの他の町村からの批判も浴びた。
[編集] 産業
[編集] 主要産業
主力産業は石油精製と菊間瓦製造、及び農業(柑橘)である。海岸を埋め立て、工業用地を確保してきた。
- 農業
- 気候温暖で柑橘の栽培に適しており、古くから柑橘栽培が行われてきた。しかしながら、銘柄産地を形成するほどではない。農業協同組合はJA越智今治。そのほか、養豚、養鶏、野菜等。
- 水産業 チリメン等の沿岸漁業。
- 製造業
- 商業
- 役場のある中心地(旧菊間)には古くから商店街があるものの、松山と今治という両市にはさまれ、購買力は流出が続いている。農業協同組合のストア(エーコープ)以外にこれといった規模のショッピングセンター等はない。
- 海運 今治地域の造船業はもともと、菊間瓦の燃料や製品を運ぶ必要から始まった経緯があり、現在でも船主が若干集積している。
[編集] 工場
- 太陽石油四国事業所
[編集] 地域
[編集] 教育
町内に高等学校はない。
[編集] 文化
- 祭り
- 加茂神社の秋の祭礼には、京の流れを組むといわれるお供馬のほか、継獅子などの出し物もあり、神輿と牛鬼が繰り出す。牛鬼は、南予では一般的だが、東予地方では菊間にのみ登場する。(中予の山間部にもかつてはみられたとの記録はあるが、今日では見られなくなっている)
[編集] 交通
国道196号とJR予讃線により、松山市や今治市に行くことが多い。
[編集] 鉄道
[編集] 道路
- 国道
- 県道
- 町内に主要県道はない。
[編集] 観光
[編集] 観光地・名所旧跡
歌仙の滝、歌仙ダム、霧合の滝、高仙城跡、松山シーサイドカントリー(ゴルフ場)、瓦のふるさと公園、かわら館、ひるめ地蔵(比留女地蔵)、客神社、海員道の亀艦として厳島神社境内にある日支連絡船長崎丸の船長、菅源三郎の銅像。
[編集] イベント・祭り
- かわらぬ愛きくま - 例年、2005等の年を付けたイベント名としている。
- 遍照院厄除行事(節分の日)
- お供馬(加茂神社の秋の祭礼)
[編集] 特産
- 菊間瓦(干支の置き物一般向け商品等もある)、みかん、小魚、鬼瓦もなか、水産練製品(ちくわ、すまき等)