菅沼正貞
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菅沼 正貞(すがぬま まささだ、? - ?)は、戦国時代の武将。長篠菅沼氏6代目当主。菅沼貞景の子。長篠城を築いた菅沼元成の玄孫。通称、新九郎。
三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の支族で、長篠城を有する長篠菅沼氏に生まれた。永禄12年(1569年)1月に父・菅沼貞景が討死。若年で家督を継いだため、大叔父・菅沼満直の後見を受ける。
元亀2年(1571年)に本家・田峯菅沼氏が武田信玄に与したとき、一度はこれに抗ったため、武田軍の天野景貫と交戦に及んだという。戦後、武田軍の先遣・秋山信友は、使者を遣わして長篠菅沼氏などを懐柔した。
正貞の意思は、家康への従属を貫くものであったが、大叔父・菅沼満直に牛耳られた家中は、本家からの使者に同調して武田信玄の靡下に入る事を望んだ。以後は、本家・田峯菅沼氏と、その縁戚・奥平氏と共に山県昌景の与力に組み込まれる。奥三河で進退を共にする誓いを立てたこの3家は山家三方衆と呼ばれる存在と成り、武田軍の手先として三州・遠州の各地を転戦した。
元亀4年(1573年)7月末には、武田軍が信濃国経由で帰国した間隙を衝く徳川家康によって居城・長篠城を攻囲される。この時、武田信豊を主将とした武田の救援軍が三河まで到達していたとされる。しかし、連絡路を遮断され援軍の存在を知らなかったためか、城方では、信豊たち援軍の到来を待たずして同年8月には開城降伏を選択。正貞は一命を奪われる事無く、北へ逃れて武田の援軍に合流した。ところが信豊たち来援の武田首脳部では、正貞が家康に内通していると疑念を抱いており、証拠物件を挙げようとする。内通疑惑は真実であったが、幸いにも証拠は出なかった。それでも、首脳部の疑念を晴らすには至らず、正貞の身柄は信濃小諸城にまで運ばれ、幽閉されてしまう。
天正10年(1582年)、武田氏滅亡の前後で獄中死したとされる。
正貞の妻も小諸城に軟禁されており、小諸で男子を出産したという。武田氏滅亡後、乳飲み子を伴って家康に対し赦免を要求し、容認された。その後、乳飲み子は長じて菅沼正勝と名乗り、徳川頼宣付けとなった。