若井基安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
若井 基安 |
|
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県 |
生年月日 | 1963年8月11日(44歳) |
身長 体重 |
172cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
守備位置 | 三塁手、外野手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト2位 |
初出場 | 1988年4月9日 |
経歴 | |
|
|
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
若井 基安(わかい もとやす、1963年8月11日 - )は、奈良県出身のプロ野球選手。現在は福岡ソフトバンクホークスのスカウトを務める。ポジションは三塁手→外野手。172cm。右投げ左打ち。
目次 |
[編集] 来歴・人物
PL学園高校時代に1981年の第53回選抜高等学校野球大会で優勝する。卒業後は法政大学に進学し(PL学園のチームメイト西川佳明らとともに法大に進学)、全日本大学野球選手権大会で1982年・1984年・1985年の計3回優勝。その後は社会人の日本石油に就職し、1986年の第57回都市対抗野球大会で優勝し、若獅子賞を獲得する。
1987年のドラフト2位で南海ホークスに入団(ちなみにこの年が南海としての最後のドラフトである)。高校・大学・社会人ですべて日本一を経験していることから即戦力として期待が高く、1988年の開幕戦では三塁手でスタメン出場した。しかし、不慣れな三塁で(社会人時代は二塁手であった)お粗末な守りを連発し、シーズン後半にはレギュラーの座を失う。
ダイエーに名前が変わった1989年からは外野手に転向するが、ダイエー暗黒時代だったこの頃でも、外野には山本和範・岸川勝也・佐々木誠など強打者が多く、レギュラー獲得とまでは行かなかった。しかし巧みなバットコントロールで代打では好結果を残し、この頃から代打の切り札として重宝されるようになる。
1994年には社会人時代に守った二塁でスタメン出場することもあったが、この年入団した小久保裕紀が二塁に定着すると再び代打での出場がメインになる。しかし1996年には小久保の不調もあり、シーズン中盤には4番を打った。この頃はスタメンでは一塁手・左翼手・指名打者での出場となっていた。
1999年は1軍出場なしに終わり、この年限りで戦力外通告を受け引退。なお、若井が戦力外通告を受けた直後にダイエーは日本一となり、若井は最後の最後にプロでも日本一を経験した。
引退後はすぐに編成部担当となり、2002年からはスカウトを務めている。
[編集] 通算打撃成績
- 732試合 打率.279(1662打数463安打) 本塁打9 打点140
[編集] 背番号
- 14(1988年-1991年)
- 25(1992年-1999年)
[編集] エピソード
- 若井のテーマ曲に合わせてライトスタンドで踊られる「若井ダンス」は球場の名物であった(ただし若井本人は「打てなくなるから」と見ないようにしていたらしい)。このテーマ曲はソフトバンクに名前が変わった現在でも、チャンス時のテーマ曲として使われている。
- 実兄の康至氏(天理高校で甲子園に出場し、南陽工業高校の津田恒実からHR)は現在、奈良県立香芝高等学校野球部の監督を務める。
[編集] 関連項目
南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス) 1987年ドラフト指名選手 |
---|
1位:吉田豊彦 / 2位:若井基安 / 3位:柳田聖人 / 4位:大道典良 / 5位:吉永幸一郎 / 6位:村田勝喜 |