花山院定熙
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花山院 定熙(かざんいん さだひろ、永禄元年11月12日(1558年12月21日) - 寛永11年11月12日(1634年12月31日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。藤原北家師実流花山院家(清華家)第19代当主。初名は家雅。霜松院と号した。西園寺公朝の子で、母は家女房。西園寺実益の異母兄。花山院家輔の養子となった。正室は徳大寺公維の娘で、継室は朝倉義景の娘。子に花山院忠長・徳大寺実久・寛海・了二・花山院定好・中御門宗保・橋本実村室らがおり、孫の野宮定逸(忠長の子)を養子とした。
天正16年(1588年)正三位に叙され、翌年権中納言になる。元和5年(1619年)内大臣になり、翌年従一位に叙せられた。その後、右大臣を経て寛永9年(1632年)左大臣に任ぜられた。寛永11年(1634年)11月12日、77歳で薨去。
慶長14年(1609年)、息子忠長が後陽成天皇の勅勘を被って解官のうえ蝦夷地(北海道)に流されたため、孫の定逸(忠長の子)を養子として引き取って育てた。
[編集] 参考文献
- 小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年。
- 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年。