臼杵焼
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臼杵焼(うすきやき)は、豊後国臼杵藩 (現在の大分県臼杵市)内で、稲葉氏の藩政時代のごく限られた期間に焼かれていた焼き物である。
窯場を藩の直営としたことから「臼杵焼」と呼ぶが、窯が末広地区に築かれたので「末広焼」とも呼び、また、窯のあったところを皿山と呼んだので「皿山焼」とも言う。
島原三重町(長崎県島原市三会)、筑前小石原村(福岡県朝倉郡小石原村)、延岡小峰町(宮崎県延岡市小峰)出身の職人達によって焼かれ、島原から来た者は磁器を作り、その他のものは陶器を焼いた。陶器の原料となる粘土は付近で採れたが、磁器の原石は遠く島原や伊万里から運ばせた。島原工人の磁器が今の人々の言う末広焼で、皿・茶碗・鉢・瓶子・壷などの器種がある。中でも皿類は一番多く焼かれており、一般的に純白で薄手の物が多く縁には輪花をあしらった特徴的なものがほとんど、染付けの物も多少残っており、藍色の顔料を用いて器の内外面に絵模様を描いたものがある。陶器は主として日用雑器で、茶わん、急須などが中心に焼かれていたようである。
臼杵焼の起こりは、寛政11年(1799年)に稲葉家十代藩主稲葉弘通が隠居した2年後の、享和2年(1801年)。藩が末広の善法寺の竹尾川に沿って南へ約700メートルほど奥にはいった、三方を小高い山に囲まれた谷間に窯場を開き、奉行をおいて監督させている。隠居して伊賀入道と称した弘道は、画を好み、自らも人物、花鳥を描くという風流殿様で、文化、芸術に趣味の持った入道の希望で臼杵焼が始められたのではないかと推測される。
窯場は文化元年(1804年)から6年ごろまで栄えていたようだが、わずか数年にして窯を閉じてしまっているのである。短期間で末広焼の生産を停止せざるを得なかった原因を明らかにする資料はないが、いくつかの要因は考えられる。まず第一に、臼杵には焼物の原料となるべき陶石がないということである。原料購入の費用、臼杵までの運搬費用などの経費がかさみ採算が取れなくなった。第二に、安くて質の良い品物が、藩外から多量にもたらされるようになった。第三に、連房式の登窯であったため、自然条件あるいは窯への火入れやその調整といった人為的な要因などによって、窯詰された品物のすべてが成功したとは限らなかったなどといった点が推測される。生産性と採算、さらに新しい製品の大量流入による販路の縮小といった点から次第に利益が減り、商売として成り立たなくなって廃窯という結果を招いたと考えられる。
現在、このあたりは竹や雑木に覆われており、容易に窯の位置などを見つけることはできない。