義号作戦
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義号作戦(ぎごうさくせん)とは
- 太平洋戦争中の1945年5月24日に沖縄戦で、日本軍が「義烈空挺隊」を用いて行った作戦のこと。沖縄のアメリカ軍占領下の飛行場に空挺部隊を乗せた爆撃機が強行着陸して破壊活動を行い、飛行場が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に攻撃を行うというものであった。
- 太平洋戦争中の1944年11月26日にレイテ島の戦いで、日本軍が「薫空挺隊」を用いて行なった作戦のこと。フィリピンレイテ島のアメリカ軍占領下の飛行場に輸送機で強行着陸して破壊活動を行なおうとした。味方輸送船の航行の安全を図る目的であった。
[編集] 義烈空挺隊
昭和20年5月24日、諏訪部忠一大尉率いる第3独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本飛行場を出撃した。12機には奥山道郎少佐率いる義烈空挺隊の隊員が乗り込んでいた。熊本を発った12機のうち6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされたが、残りの4機は発動機の不調などにより目的地に辿り着けず途中で帰還している。戦後の戦史でも戦時中のまま「北飛行場に6機、中飛行場に2機突入」の記録が残った。
他方、アメリカ軍の記録では、義烈空挺隊のうち北飛行場(読谷飛行場)に1機のみ、胴体着陸・挺身攻撃に成功している。この機体は滑走路に胴体着陸した状態の写真や、機体の撤去作業中の動画などが記録映像に残っておりよく知られている。飛行中に対空砲を浴びて戦死し機内で突っ伏した状態の搭乗員の写真なども残っている。これらの記録映像から最低1機は確実に突入に成功したと考えられる。アメリカ軍の記録などによると、そのほかの機体は激しい対空砲火により飛行場周辺で撃墜されたとされる。
胴体着陸に成功した重爆に乗っていた空挺隊員(及び搭乗員)は、少人数ながら予定通りの地上戦闘・破壊活動を行い、飛行場は混乱に包まれた。後のアメリカ軍の調査によると、駐機中であった航空機9機が破壊炎上したほか、30機近くが損傷を受けた。また、飛行場にあった航空燃料用のガソリンが炎上し、7万ガロンが焼失した。このように飛行場の機能に一定の打撃を与えることには成功したが、天候不良のため日本軍はこの機会を生かすことができなかった。
米軍側死傷者は約20名で、日本兵の遺体は69体(墜落などによって死亡した者も含む)が収容された。空挺隊員1名が生存して同年6月12日ごろに島尻南部に到着、日本軍第32軍司令部に戦果を報告しているが、現在もこの人物の氏名は判明していない。
[編集] 薫空挺隊
薫空挺隊とは台湾軍遊撃第1中隊の一部で、本来はジャングルでの遊撃戦専門の特殊部隊であった。台湾の高砂族がかなりの割合を占めており、第1、第2中隊に分かれた総員192名中には兵が152名いたが、これらの兵のうち通信、衛生の特技者を除いては高砂族出身者で構成されていた。当時の在フィリピン日本大使の日記によれば、爆弾を抱えて敵中に突入する訓練も行なっていた部隊だということである。
1944年10月にレイテ作戦が始まると、日本軍は増援部隊や補給物資を載せた輸送船をレイテ島に送ろうとしたが、アメリカ軍が築いた飛行場から発進する航空機に次々と沈められてしまっていた。そこで、この航空兵力を一時的にでも封殺すべく、レイテ島にあった5つの飛行場のうちブラウエン北、南の2つの基地に対して強行着陸攻撃を行なうこととなり、遊撃第1中隊の投入が決まった。第4航空軍飛行第208戦隊の零式輸送機4機に中重夫中尉以下四十数名が搭乗して、1944年11月26日夜間に決行された。
日本側記録では、4機のうち1機は日本軍勢力下のバレンシア飛行場に着陸し、搭乗員は第26師団とともに行動したということのみが確認されている。残りの3機のうち2機については、米軍戦史によればドラッグ海岸付近に着陸し、乗組員はいずこへともなく消えていったという。残る1機は完全に消息不明である。薫空挺隊の生き残りがいるのかどうかも明らかになっていない。この作戦が成功したのか、失敗したのか、はたまた敢行すら出来なかったのかさえ未だもって不明である。米軍戦史の記述を信用すれば、戦いすら起きなかったと見るのが妥当かもしれない。この戦いで戦死したと認定された高砂族の兵士は靖国神社に合祀されている。
"義号作戦"は義烈空挺隊が有名であるが、先にこの名称が使われたのはこの戦いが最初である。
なお、この作戦に続いて10日後の12月6日には、高千穂空挺部隊によるレイテ島5基地への一斉強行降下作戦である「テ号作戦」が行われている。こちらも、ブラウエン飛行場に降下した100人以上が第16師団に合流したことまでは判明しているが、第16師団も後に壊滅しており、合流者の最後は明らかでない。