美少女ブーム
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美少女ブーム(びしょうじょぶーむ)とは、おもに1986年から1989年春にかけて巻き起こった十代前半の女性アイドルや女優の芸能界における流行現象。後藤久美子の爆発的人気から火がついた。現在のジュニアアイドルのはしりでもある。
[編集] 流行の発生と終焉
1980年代半ばの女子大生ブームの後を受けた女子高生ブームの象徴、おニャン子クラブは集団のなかに美人からどこにでもいる普通の娘、そして個性的なタイプまで玉石混淆で取りそろえられ、ファンはそのなかから好みのタイプを探すというスタイルであった。しかし、世の常でブームは移ろい、女子大生から女子高生と来て、次は女子中学生にスポットが充てられた。それが美少女ブームであり、実質は女子中学生ブームであったが、女子高生ブームとは異なり、集団的要素はまるでなく、その対象にも普通の娘や個性的な娘は取り除かれ、とにかく美人中学生=美少女のみが取り上げられた。また、女子大生ブームや女子高生ブームにおける同世代の動向とリンクさせるカルチャー的な側面はなく、実年齢以上に大人びた顔立ちと言動、振る舞いがもて囃されたのも特徴。とにもかくにもそれは美少女ブームの先駆けであり象徴だった後藤久美子が基本的フォーマットを作り上げた。
1986年、おニャン子クラブのブームで「普通の女の子」がもて囃されたのと引き替えに美人像の低レベル化を招いたところに、正統派な美人の面立ちを売りにCMモデルなどで活躍していた後藤久美子が女優業とアイドル業に進出。中学一年生ながら大人びた顔立ちとその振る舞いがうけ、彼女の活躍を機に世に言う美少女ブームが始まる。翌1987年、彼女主演の映画や主演級によるテレビドラマ、「ママはアイドル!」、「痛快!ロックンロール通り」などがひっきりなしに作られていく。まさにこの年を代表するアイドルであり、女優ともなった。
また、後藤と同年代のCMモデルや子役だった高橋かおり、坂上香織、喜多嶋舞、小川範子、佐倉しおりらがブームに乗って、CMモデルや子役の枠を越えてアイドルのフィールドに進出(主演ドラマ製作、歌手活動、アイドル誌や青年誌向けのグラビア撮影 etc・・・)。しかし、それでも後藤久美子が常にトップの活躍をみせ、美少女ブームを牽引していった。彼女のニックネームであるゴクミは、この1987年の新語・流行語大賞における流行語部門の銅賞を受賞するに至るなど彼女と美少女ブームはますます加熱していく。そして彼女の所属事務所、オスカープロモーションはこれに乗じて同年、「全日本国民的美少女コンテスト」を開催。ゴクミと同年齢の藤谷美紀をグランプリで選び出した。 コンテスト共催のテレビ朝日は、藤谷と同世代の上位入賞者らを起用したその名も「美少女学園」という架空のドラマ部分と実際のレッスン過程をドキュメントさせたバラエティー番組も制作するなどした。
しかし、火付け役となり、つねにブームの先頭を走っていた後藤久美子はブームさなかの1988年春、高校受験勉強に専念するため芸能活動を休止し、第一線から自ら降りてしまう。その後釜に納まったのが宮沢りえ。後藤久美子と同年齢で、同じCMモデル出身である彼女はまるでゴクミの活動休止を待っていたかのように1988年夏から急激に名前も顔も露出していく。翌1989年からはまさに彼女のブームが始まるのだが、その頃には宮沢りえの活躍=美少女ブームとは呼べないものだった。高校生の年齢に達してしまって、いわゆる普通の女性アイドルの年齢域だったためである。宮沢をはじめ、活動再開した後藤、そして彼女らとブームのなかにいた先述の者達もすべて高校生の年齢にほぼ一斉に達してしまい、ここに美少女ブーム=女子中学生ブームは終焉する。