紀野一義
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紀野一義(きの かずよし、1922年8月9日 -)は、日本の仏教学者、宗教家。真如会主幹。
仏教学者としては中村元らと共に「般若心経・金剛般若経」「浄土三部経 上・下」を翻訳(いずれも岩波文庫)。
一方、真理運動を展開する宗教者・友松圓諦の主宰する神田寺の青年部長を務めた後、在家仏教団体真如会(しんにょえ)を設立して主幹を務め、特定宗派に偏らず、現代に生きる仏教の普及をはかる。昭和39年に東京・谷中の全生庵ではじまった「清風仏教文化講座」は現在も続いている。「啓蒙書著作多く、仏教現代化に貢献した」として第一回仏教伝道文化賞を受賞。
紀野の仏教に対する理解は戦争体験により深められたという。学徒出陣で太平洋戦争には陸軍工兵士官として応召。レイテ島に送られる予定であったが輸送船団が壊滅し、台湾に送られる。ここで米軍爆撃機が投下した不発弾1752発の信管をはずした。また、留守家族のほとんどは広島に投下された原爆の犠牲となった。こうした生死ぎりぎりの経験を経て仏典がよくわかるようになったという。
歯に衣着せぬ毒舌家としても知られている。日本の既存の仏教を堕落した「葬式仏教」として批判する痛烈さを支持する者もが多いが、同時に批判するものも少なくない。
[編集] 略歴
- 1922年 山口県萩市の顕本法華宗寺院・妙蓮寺の子息として誕生
- 4歳の時、父とともに広島市の本照寺に移る。
- 旧制広島高校 卒業
- 1943年 東京帝国大学文学部印度哲学科2年在学中、学徒出陣で応召。陸軍第五師団工兵連隊に入隊。
- 1945年 台湾で国民政府軍の捕虜となる。家族を広島原爆で失う。
- 1946年 解放され帰国、復学。
- 1948年 同大学卒業
- 1958年 第一回印度学仏教学会賞受賞
- 1964年 谷中・全生庵で清風仏教文化講座はじまる。
- 1967年 第一回仏教伝道文化賞受賞
- 19XX年 宝仙学園短期大学学長 就任
- 1993年 正眼短期大学副学長 就任
[編集] 著作リスト
- 『般若心経・金剛般若経』(中村元との共訳註、岩波文庫、岩波書店、1960年)
- 『浄土三部経 上下』(中村元、早島鏡正との共訳註、岩波文庫、岩波書店)
- 『いのちの世界-法華経-』(筑摩書房、1965年)
- 『いのちの風光』(筑摩書房、1967年)
- 『佛との出会い』(筑摩書房)
- 『大悲風の如く』(筑摩書房)
- 『ある禅者の夜話-正法眼蔵随聞記-』(筑摩書房)
- 『私の歎異抄』(筑摩書房)
- 『良寛さまを旅する』(清流出版)
- 『禅-現代に生きるもの』(日本放送出版協会)
- 『法華経の風光』(水書房、1977年)
- 『名僧列伝1~4』(講談社学術文庫)
- 『仏像を観る』(入江泰吉と共著、PHP文庫)
ほか多数。