米比戦争
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米比戦争(べいひせんそう, 1899年-1913年)は、アメリカ合衆国とフィリピンの間で起きた戦争である。
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[編集] 背景
1898年12月に、アメリカは米西戦争でフィリピンの独立を援助するためにスペインを破ったにも関わらず、後のパリ条約において2,000万ドルでフィリピンを購入し、自国の植民地にしようとした。
1896年以来スペインからの独立のために戦ってきたフィリピン人たちは6月12日に独立を宣言したが、アメリカ合衆国からは8月14日に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカはフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。
1899年1月1日にエミリオ・アギナルドが初代大統領に就任した。彼は、その後マロロスで議会を組織した。
[編集] 戦争の始まり
アメリカは、フィリピン側にとって同盟者ではなく支配者になったと見られたため、フィリピン兵とアメリカ兵の関係は極度に緊迫したものであった。1899年2月4日、サン・フアン・デル・モンテの橋でアメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺された。近年フィリピンが行った調査では、事件の現場は、現在のマニラ市内のソシエゴ通りであったとしている。当時のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーは、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求めた。
マッキンリー政権は、アギナルド率いる政府を犯罪者集団と呼んだため、議会を通じた正式な開戦通告は行われなかった。主な理由として2つ挙げられる。1つ目は、フィリピン側を国と認知しないことで、国家間の戦争ではなく、政府に対する反乱であるとするためであった。しかし、この時点でアメリカ側が支配していたのはマニラのみであった。もう1つは、米西戦争により逼迫していた財政を念頭に、アメリカ兵の戦争手当てを最小限にするため、戦争ではなく警察活動であると宣言したのであった。
さらに次の10年では、アメリカ軍はフィリピン軍に対抗するため、126,000人にも及ぶ大規模な軍事力を必要とした。アメリカ軍はさらに、パンパンガ州マカベベのフィリピン人を雇い入れることも行った。1898年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮したアメリカ軍の将軍30人のうち26人は、インディアン戦争の経験者であった。
1899年2月末までに、アメリカ軍はなんとかマニラを手中に収め、フィリピン軍は北部へ退去せざるを得なかった。アメリカ軍の勝利はその後も、クィングァ(現ブラカン州プラリデル、4月)、ザポーテ橋(6月)、ティラード峠(12月)と続いた。6月のフィリピン政府内の敵対派によるアントニオ・ルナ将軍の暗殺によって、フィリピンの通常軍は弱体化した。グレゴリオ・デル・ピラール准将はティラード峠の戦闘でアギナルドを逃がすために戦闘を遅らせたが、ピラール本人は最後の攻撃で殺された。この戦闘の結果と、優秀な将軍2人を失ったため、フィリピン軍は通常戦を戦う能力を急激に失っていった。
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[編集] 戦争への反対
マーク・トウェインやアンドリュー・カーネギーに代表されるアメリカ反帝国主義連盟は、フィリピンの併合に強く反対した。また、フィリピン人はアメリカ合衆国に加わりたいと考えていると思い込み、フィリピンの併合は民意を反映していないと反対するアメリカ人もいた。戦争に対する反対意見の主な理由は、単にスペインからアメリカにフィリピンの支配国が移り変わっただけであり、米西戦争の目的に反しているというものであった。反乱を鎮圧するために行われた虐殺や虐待が報じられるようになると、戦争への賛成意見は減少した。
[編集] 結果
[編集] 主な戦い
- ザポテ橋の戦い(1899年6月13日)
- サン・ヤキントの戦い(1899年11月11日)
- ティラード・パスの戦い(1900年12月2日)
- プラン・ルパの戦い(1900年9月13日)
- マビタクの戦い(1900年9月17日)
- バランギガの虐殺(1901年9月28日)
[編集] 関連項目