簗田貞助
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簗田 貞助(やなだ さだすけ、?-慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、徳川家康に仕えた旗本。元下総国水海城(現在の茨城県古河市)城主。父は簗田持助。初名・助利(すけとし)、幼名は熊千代丸。初名の助利が簗田氏庶流が用いる「助」を前にした名乗りである事から持助の実子ではなく、その父・簗田晴助の庶子で持助の養子になったとする説もある。
簗田晴助以来、北条氏と対立する立場にあった簗田氏は主君であった古河公方家が断絶すると、北条氏によって親北条路線をとる大叔父簗田助縄によって本城である関宿城を奪われてしまう。更に天正15年(1587年)に持助が病死すると、貞助が幼くて家督を継げない事を理由に助縄が一時家督を継ぐ事が認められる事になった。18年(1590年)には簗田氏は小田原征伐に際して北条方に付いたとして、所領を没収されて反北条の貞助までが連座して所領を失ってしまう。
だが、晴助・貞助のいた水海城の明け渡しに立会い、晴助の北条氏との戦いぶりを知った浅野長政が貞助に同情して、関東の新領主となった徳川家康に晴助と孫の貞助を召し出すように勧めた。
家康も簗田氏が代々古河公方に忠節を尽くした家柄であることを考慮して貞助を1000石で召し出す事になった。家康が没落した関東の旧名族に対しては厳しい態度に臨んだといわれる事を考えれば、破格の待遇であったといえよう。慶長2年(1597年)に嫡男簗田助吉が生まれる。江戸幕府成立後は御書院番として2代将軍徳川秀忠に仕える。
だが、大坂夏の陣参戦中に息子・助吉ともども討ち死にしてしまう。貞助には助吉以外に男子はおらず、後に外孫が家名を継いで100石で取り立てられた。とは言え、室町時代の鎌倉公方・古河公方に重臣として仕えてその忠節を讃えられた簗田氏の嫡流はここで断絶することになるのである。