箸墓古墳
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箸墓古墳 | |
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箸墓古墳(北西方面から) |
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所在地 | 奈良県桜井市箸中 |
位置 | 北緯34度32分21.34秒 東経135度50分28.42秒 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 全長278m、高さ30m |
築造年代 | 3世紀中頃 |
被葬者 | 倭迹迹日百襲姫命(宮内庁指定)、卑弥呼説あり |
出土品 | 特殊器台形埴輪、壷形埴輪 |
史跡指定 | 宮内庁指定(倭迹迹日百襲媛命大市墓) |
箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳とも)は、奈良県桜井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられており、3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。
目次 |
[編集] 概要
この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王「卑弥呼」の墓とする(=邪馬台国畿内説)向きもある。従来、構築年代が三世紀末から四世紀初頭であり、卑弥呼が死亡したする三世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきたが、近年、最近、年輪年代法や放射性炭素法による年代推定を反映して、古墳時代の開始年代を従来より早める説が有力となっており、上記の箸墓古墳の築造年代は、研究者により多少の前後はあるものの、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が一般的になっており、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が高くなっている。
現在は、宮内庁により第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されており、墳丘への自由な出入りはできない。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。
[編集] 名の由来
『日本書紀』崇神天皇十九月の条に、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語) |
なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀?)と説話の作成された時期とに大きなズレがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になった?という土橋寛の説もある。
[編集] 墳形・規模
最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていたことが分かる。
現状での規模は、墳長およそ278m、後円部は、径約150m、高さ約30mで、前方部は、前面幅約130mで高さ約16mを測る。その体積は約37万立方メートル。周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかったものと思われる。
後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘がのったものと指摘する研究者もある。前方部は、側面の段築は明瞭ではないが、前面には四段の段築があるとされる。ちなみに、5段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで、4段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ、他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れない。
奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していたことが確認されている。巨大な前方後円墳がその最古の時期から周壕を持つことが分かった。
[編集] 外表施設・遺物
前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在しているが確認されている。
この時期には埴輪列はまだ存在していないが、宮内庁職員によって特殊器台形土器、特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪、壺形埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。また、岡山市付近から運ばれたと推測できる吉備型の特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪が後円部上でのみ認められるのに対して底部に孔を開けた二重口縁の土師器壺は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。吉備型の特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。
埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるという。この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明している。従って、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではない。
周濠は、前方部と後円部の一部分の発掘調査から、幅10メートル前後の周濠と幅数十メートル前後の外堤の一部が見つかっている。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺き石を積み上げた渡り土手が見つかっている。
[編集] 築造時期
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていたが、陵墓指定範囲の外側の周辺部での発掘調査によって、墳丘の裾の幅10メートルの周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土し、古墳時代前期初頭(3世紀半ば)の築造であることが確定した。
また、箸墓古墳よりも古いと考えられている纏向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していること、渡り土手を備えていること、周濠が墳丘の規模に比べ狭いことなど分かってきた。それらのことから箸墓古墳は、弥生時代の墳丘墓が飛躍的に巨大化したものであり、弥生時代の墳丘墓に続くものであると考えられている。
[編集] 意義
墳丘の全長約280メートル、後円部の高さ約30メートルで自然にできた小山と錯覚するほどの規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点など、それまでの墳墓とは明らかに一線を画している。 また、規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられ、当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多い。
[編集] 被葬者
後円部の規模が『魏志倭人伝』にある「百余歩」に一致することなどから畿内説論者の中にはこの古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいるが現時点では正確なことは分からない。ちなみに一歩は六尺で、魏・晋時代の一尺は24.12センチとされているから、一歩はほぼ1.45メートルとなり、百余歩は約150メートル前後となる。
[編集] その他
なお、桜井市教育委員会が2000年に実施した周辺部の発掘調査によって、周濠内の堆積土から木製の輪鐙(馬具)が発見されている。同時に出土した布留1式土器により四世紀のものとされるが、これにより列島内への騎馬文化の流入および東アジアにおける騎馬文化の伝播の理解が従来よりも古く修正されることになった。ただし周濠内からの出土であることから、古墳本体の築造年代とは関わりのない後世の二次的な出土物である可能性もある。
尚、織田氏の統治下では、墳丘上にお茶室が設けられていたと言う。また、後円部南東の側面に測量図で溝が見られるのは、そのふもと近辺に江戸時代、箸中長者の経営する茶店がありその影響とも思われる。主に伊勢参りの旅人を相手に飴・甘味が名物として売られていた、という。また、周濠に掛かる外堤も少し東から検出されている。
測量図を見て前方部と後円部の境目に斜めについた溝は、進入禁止になる前に村人が使用した道の跡である。
[編集] 関連項目
この項目には、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なる文字があります。「箸」の文字は公式の表記と異なる可能性があります。 |