稲葉通孝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
稲葉 通孝(いなば みちたか、生年不詳 - 慶長12年7月26日(1607年9月17日))は江戸時代の大名。豊後国内の領主。稲葉貞通の三男。母は織田信秀の娘で、織田信長の妹。官位は、従五位下修理亮。
関ヶ原の戦いの論功行賞で父貞通は最初西軍であったが、東軍に寝返ったことを評価され、豊後国臼杵藩に加増転封となり、父に同行した。のちに豊後国内において1万4000石余を分与される。慶長12年(1607年)、伏見において没す。長男通照がいることを生前に幕府に届けていなかったので無嗣改易となった。領地は兄の稲葉典通に還付された。通照は寛永元年(1614年)に幕府に召し出され、のちに500俵を給され、子孫は700石の旗本となった。寛政2年(1790年)、通生の代に不行跡により350石に減封にはなったが、明治維新を迎えている。