稲葉典通
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稲葉 典通(いなば のりみち、1566年(永禄9年) - 1626年12月27日(寛永3年11月9日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。豊後国臼杵藩の第2代藩主。稲葉良通(一鉄)の孫で、父は稲葉貞通(典通は長男)。母は斎藤道三の娘。正室は丹羽長秀の娘。子に一通、娘(諏訪忠恒室)。官位は従四位下、侍従。
祖父、父と共に織田信長に仕えていたが、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死ぬと羽柴秀吉に与した。このとき、父から家督を譲られている。天正13年(1585年)に官位と豊臣姓を下賜されたが、天正15年(1587年)の九州征伐で秀吉の怒りを買って逐電し、伊勢国朝熊に蟄居した。このため、稲葉氏の家督は貞通が再び継いだという。
文禄元年(1592年)、朝鮮出兵が始まると豊臣秀勝(秀吉の養子)に召しだされて渡海し、戦功を挙げた。秀勝死後は豊臣秀次に仕えたが、文禄4年(1595年)の秀次事件で連座により処罰される。その後しばらくして、再び秀吉に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と行動を共にし、慶長8年(1603年)の父の死により再び家督を継いだ。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方に与して参戦し、翌年の大坂夏の陣では遅参してしまった。
寛永3年(1626年)、第3代将軍・徳川家光の上洛に随行したが、直後に発病して、11月9日に臼杵にて病死した。享年61。死後、家督は長男の稲葉一通が継いだ。
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