福岡孝悌
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福岡孝悌(ふくおか たかちか、天保6年2月5日(1835年3月3日) - 大正8年(1919年)3月5日)は、幕末期の土佐藩の家老、明治時代の政治家。通称を藤次、雅号は南蘋。子爵。
[編集] 経歴
天保6年(1835年)、土佐藩士福岡孝順の次男として生まれた。吉田東洋の塾に入って岩崎弥太郎や後藤象二郎らと学ぶ。吉田の失脚を機に塾を辞したものの、安政5年(1858年)の吉田の藩政復帰に伴なって台頭し、大監察に取り立てられた。吉田と共に藩政改革に取り組んだが、文久2年(1862年)の吉田暗殺後は職を辞して藩政から離れた。
文久3年(1863年)、藩主山内豊範の側近となり、公武合体運動を推進した。慶応3年(1867年)には後藤象二郎と共に同藩を代表として、将軍徳川慶喜に拝謁して大政奉還を勧めている。
明治維新に際しては、新政府の参与となり、越前藩の三岡八郎(由利公正)と共に「五箇条の御誓文」の草案を作成した。福岡はあくまで武力による倒幕を望まず、諸大名による合議制を望んでいた。誓文の「列侯会議を興し、万機公論に決すべし」とある一文も、それを如実に現している。
新政府においては、同藩出身の板垣退助と共に活躍。司法大輔・元老院議官・文部卿・参議・参事院議長・枢密顧問官・宮中顧問官などの要職を歴任し、明治17年(1884年)の華族令制定にあたっては子爵を授けられて華族に列せられた。