確認・糾弾
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差別事件における確認及び糾弾(かくにん・きゅうだん)とは部落解放同盟など被差別者が差別事象の実行者や関連する責任者など差別者とみなした人間を呼び出し、差別行為の事実関係を確認し、その責任を問う中で部落問題等の差別そのものに対する認識姿勢を糾すことである。
これを解放同盟は「部落差別によって被害をうけている部落大衆を救い、基本的人権を守るための唯一の方法」として用い差別糾弾闘争を部落解放運動の生命線[1]と位置づけている。
しかし実態は「解放同盟が恣意的に検事と判事の役割を務める『弁護士なき人民裁判』に等しいものであり、手続上きわめて大きな問題を孕んでいる。」とする意見もあり、日本共産党を中心にその見解のみ流布される現状にある。具体的には矢田事件(1969年)や八鹿高校事件(1974年)、天理西中学校事件(1989年)など数多の刑事訴訟に発展した事例もあり、それらについては解放同盟の幹部らが逮捕起訴され有罪判決を受けた事例も存在する。矢田事件の判決では「被糾弾者が拉致監禁され深夜まで糾弾を受け、執拗な脅迫文言[2]を以て威圧される異常事態に発展した。」と認定されるに至った。実はこのときの被糾弾者は部落出身者であった。これを以て「確認・糾弾が部落出身者自身の人権を侵害する手段ともなりうる」と主張されることがある。
なお解放同盟は「確認・糾弾権」の法的根拠として、八鹿高校事件に関する1988年3月29日大阪高裁判決を引用することが多いが、この判決は最高裁で覆されており、「確認・糾弾権」なる法概念の根拠は否定されたままである。
確認・糾弾に対して向けられる批判の1つに、糾弾対象が差別事象の行為者のみではなく、監督・指導等の責任者を問うことに対してのものがある。1999年松阪商業高校事件当時の校長は「確認・糾弾会による心労から縊死を遂げた」と主張されている。
現在の解放同盟は、地域で暮らしづらくなった・退職せざるを得なくなったなど、悪質な差別事案にのみ対応しているとしているが、実際には曹洞宗の町田宗夫理事長のごとく「部落問題は既に解決された」旨の発言から糾弾に至る事例も数多い。解放同盟は内部で育成した臨床心理士が司会をして、その差別者がいつ・どのように差別意識を抱くようになったかを解明し、それが偏見に過ぎないことを指摘し、差別を許さない人間に成長してもらうことを目的としている。糾弾の「教育的意義」を強調するものの、法務省は上述のような幾つかの問題点を列挙した上で「確認・糾弾会は、同和問題の啓発には適さない」と全解連に向けて合意している。
なお、差別者の特定と部落差別の解消は基本的に行政の責任であるとの認識から法務局と協力して行うのが解放同盟の方針であるが、法務省は「確認・糾弾がそもそも違法である」との立場から、確認・糾弾会への立会いを拒否するとともに、「確認・糾弾会には出席すべきでない」としているとされる。
[編集] カレル・ヴァン・ウォルフレンによる主張
法務省は「確認・糾弾がそもそも違法である」としていながらも、事実上、糾弾を黙認していることについて、在日オランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンは、著書『日本・権力構造の謎』の中で「解放同盟の糾弾は人々に恐怖を与えるだけで、何の効果も、法的根拠もない。にもかかわらず、日本政府が糾弾を取り締まるどころか逆に解放同盟と連携して、法による差別解消を目指している団体(全解連のこと)を弾圧しているのは、政府自らが差別改善に取り組むよりも、解放同盟に丸投げした方がコストが安くつくからである」と主張しており、彼自身がその記述により糾弾された。
[編集] 脚註
- ^ 部落解放同盟「差別糾弾」とは何か
- ^ 「(われわれは)差別者に対しては徹底的に糾弾する、糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ、差別者は日本国中どこへ逃げても草の根をわけても探しだしてみせる。糾弾を受けてノイローゼになったり、社会的に廃人になることもあるぞ、そう覚悟しとけ」 「お前らいつまでたったら白状するのや、お前らは骨のある差別者や、ともかく徹底的にあしたでもあさってでも続いて糾弾する」(大阪地裁1975年6月3日判決、判例時報782号23頁より)
[編集] 外部リンク
- 「確認・糾弾」について法務省の見解(全解連による)