県庁通り (佐賀県)
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佐賀県の県庁通りとは、江戸時代は龍造寺八幡宮と佐賀城を結ぶ参道であったようだが、現在は佐賀県庁から北へ向かう通りの名である。現在は中央通の西側に沿って通る裏通りのような状態であるが、そのため商店街としてまだ生き残っている。佐賀市内の中心市街地に立地する商店街は各地方都市の商店街同様に衰退化の傾向にあるが、県庁通り商店街だけは、現在もなお、生き残りの活動を続けている。
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[編集] 県庁通り商店街とは
北に龍造寺八幡神社、南にくすかぜ広場(公園)・県庁、中央に佐賀玉屋を配する、南北約500mの商店街。過去3年間の動きを見ても、退会者が7店、新規加入者が9店と加盟店舗数は若干増加。駐車場が点在しており、台数的には約400台強。県庁通りの店舗構成としては喫茶飲食関係が12店舗、宝石服飾呉服が7店舗、食品関係販売6店舗、エステ美容関係3店舗、病院3店舗、薬局2店舗、自転車バイク2店舗、カメラ2店舗、碁盤、画材、模型、楽器、百貨店、陶器、文具、電機設備がそれぞれ1店舗、その他3軒となる。店舗の構成から見ると、生活に密接した物が少ないが、佐賀玉屋の食品売り場、ふるさと館を含んでいるためどうにかクリアしている。特徴的なことは、佐賀玉屋に無い、碁盤、画材、模型、楽器店があり、相互補完している状態にある。
[編集] 県庁通り商店街の今までの活動
[編集] 川の看板企画
県庁通りを横切るクリークは蛍も住む川である。「水と緑の街佐賀」ならば、訪れる人に水の流れる綺麗な川を見てもらおう。そのためにも、地元の人も知らない川の名前やいわれのことを知ってもらうための看板を設置。(2004年度)
[編集] 頑固親父と頑固女将の紹介看板企画
県庁通りの商店は、商売の関係から地元コミュニティとの接触度合いが低い。また、八百屋や魚屋の様な、通りに面して解放した商売が少ないため店主の顔が見えにくい欠点がある。これを少しでも解消し、もっと店主のことを知ってもらい、見て楽しく、少しでも会話のネタになればと、いうことで、頑固親爺と頑固女将の紹介看板を設置。(2004年度)
[編集] 龍造寺八幡宮と県庁通り案内看板企画
佐賀に住む人の中にも、県庁通りが何処にあるか、八幡神社が何処にあるか知らない人が多い。来街者を増やすためにも、駅から来る人に、県庁通りが何処にあるかを示す案内が必要であるとの考えで、県庁通りの北の入り口である土橋に誘導看板を設置した。(2005年度)
[編集] 頑固親父と頑固女将の夕涼み企画
県庁通りを人が集まる街にしよう、愉しい街にしようと企画。そのためには、自分たちや地元の人が楽しめる手作りのお祭を企画・実施。(ただし、どうゆうわけか、雨と台風に好かれてしまい実施できたのは3回に終わった。)
[編集] 県庁通りの名物創り企画
- 有田工業高校の生徒による八福神の仮面つくり(2005年度)
- 八福神の云われを作成(2005年度)
- 龍造寺八幡宮のお祭りにあわせ市内パレード(2月・11月)
- 県庁通り・中の小路・八幡小路・唐人町・白山通りをパレード(2005年度・2006年度)
[編集] 自分の住む街「絵画コンテスト」
郊外や行楽地に出かける人々が多いゴールデンウイークに、地元に住んでいる子供たちに自分の街をよく知ってもらい、自分の街をTMO好きになって欲しいとの思いから、自分の住む街を絵に描いてもらおうと実施。佐賀市・佐賀(佐賀商工会議所)・佐賀玉屋が後援し、地元の勧興小学校の456年生に協力していただいた。(2006年度)応募して頂いた絵は、厳正に審査し最優秀賞、優秀賞、ならびに各商店の協賛賞を選出し、入賞した絵は「子供の日」に「自分の住む町」県庁通りで表彰式を執り行った。
[編集] 歴史
県庁通りの北の端にある、龍造寺八幡宮は、もとは佐賀城内にあった神社だが、慶長12年(1607年)鍋島初代藩主勝茂のとき、旧村中城を拡張したとき、旧城内にあった寺社を全て城外に移したときに、現在の地に移ったものであり、その歴史は古い。八幡宮は、文治3年(1187年)龍造寺氏の祖季家が、鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請し創建。龍造寺一門や武家の守護神であり、一般の参拝は無かったため江戸時代までは参道に商家はなかった。同じ境内にある、「楠神社」も、元禄5年(1692年)徳川光圀が湊川建碑に先立つこと29年も前の、寛文三年(1663年)佐賀藩士深江平兵衛入道信渓が大木英鉄らと謀り、京都の仏師法橋宗而に楠木正成親子の木像造作を依頼し、佐賀大和町永明寺に小堂を建て祭ったのがはじまりである。これはわが国における楠公を祭った最初であり、その木像を祭ってある。
この時、信渓の義挙の賛し奉加帳に署名喜拾した人々は、藩主鍋島光茂、世子綱茂、小城、蓮池、鹿島の三支藩主をはじめ家老、諸士、法師など二百余名に及んだ。それ以来、年々祭祀を行っていたが、信渓は天和2年(1682年)63歳で通天庵で没し、その後尊像が転々とし、百数十年後、鍋島家菩提寺の高伝寺楼門に安置されていたことが、文化10年(1813年)に発見された。これを有職故実家の山領利昌(主馬)が考証、彫刻家の緒で小出光豊が修理を行い、文化13年に完成した。楠公父子像の体内に信渓の手記などが入っていたので、これに趣意書をつけ、高伝寺の末寺である本庄村梅林庵に尊像を安置し、長寛和尚に開眼式を行い、新たな祭祀が行われるようになったと言われている。
嘉永3年(1850年)国内に尊王思想が拡がりはじめた時期に、藩校弘道館教授 枝吉神陽らが中心となり、信渓の末裔深江俊助を盟主として、「楠儀祭同盟」を結成した。これが佐賀における勤皇運動の組織である「義祭同盟」の始まりと言われている。佐賀執政 鍋島安房はこの同盟を支持し、安政3年(1853年)に楠公父子像を八幡神宮境内に遷して、自ら盟主となり、同年5月25日に盛大なる「楠公御祭」を執行した。これが現在の楠公神社の始まりである。
義祭同盟には、枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)、江藤又蔵(新平)や武富文之助、大隈八太郎(重信)、久米丈一郎なども参加したコトが記録に残っている。これらの同盟によって培われた忠誠一途の伝統的葉隠精神は、勤皇思想によって、さらに浄化されていったようである。この同盟から「副島種臣」「大隈重信」などの明治維新の元勲といわれる人材を多く輩出している。