相馬徳胤
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相馬 徳胤(そうま のりたね、元禄15年2月23日(1702年3月21日) - 宝暦2年5月13日(1752年6月24日))は、相馬中村藩6代藩主・相馬叙胤の三男。母は相馬昌胤の娘・品姫。正室は内藤弌信の娘(内藤信輝の養女)・おそよの方、継室は浅野吉長の娘。子は相馬恕胤(次男)。従五位下、因幡守。幼名は鍋千代、菊千代、通称は内膳。
宝永5年(1708年)12月3日、陸奥中村藩主相馬尊胤の養子となる。正徳4年(1714年)7月21日、将軍徳川家継に御目見する。享保元年(1715年)12月18日、従五位下因幡守に叙任する。享保9年(1724年)に内藤弌信の娘(内藤信輝の養女)・おそよの方と結婚するものの、享保14年(1729年)に子どもが無いまま先立たれた。享保15年、秋田藩主佐竹義峯から養子縁組を申し込まれるものの、養父尊胤は断っている。享保16年(1731年)に浅野吉長の娘と再婚し、嫡男・正千代が生まれた(ただし早世)。その後、側室との間に次男・恕胤が生まれた。
宝暦2年(1752年)、家督相続以前に死去し、8代藩主には次男・恕胤が就いた。戒名は洞嶽院殿別宗覚天大居士。