相馬大作事件
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相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、文政4年(1821年)に参勤交代を終え、江戸から帰国の途についていた、弘前藩主の津軽寧親を狙った暗殺未遂事件。
犯人は、盛岡藩士の下斗米秀之進である。偽名として“相馬大作”と名乗っていた事に事件名が由来する。
裏切った仲間の密告により、寧親の暗殺に失敗した秀之進は藩を出奔するが、後に幕府に捕らえられ、獄門の刑を受ける。なお、斬首で使用された刀が「延寿國時」(南北朝時代の作)であり、青森県弘前市に保管されている。
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[編集] 経緯
[編集] 相馬大作伝
福岡(現二戸市)の南部藩士の二男に生まれた秀之進は、無類のきかん坊だったが兄が病弱であったため父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞き、脱藩して1806年江戸に上ったとされる。
江戸では最初は夏目長右衛門に師事して武術を修め、次に平山行蔵に入門、兵法武術を学び文武とも頭角を現して、門人四傑の一人となり師範代まで務めるようになった。父が病気と聞いて帰郷し、自宅で武家や町人の子弟の教育にあたった。当時北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の100年の憂いをなすものは露国なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」とさとしていたという。この思想は師匠の平山行蔵の影響であろう。
[編集] 発端
元々津軽氏(大浦氏)は南部氏の家臣(一族)であったが、初代津軽為信(大浦為信)は南部氏の後継者選定騒動の最中に1571年独立し、津軽と外ヶ浜地方を支配した。さらに津軽為信は豊臣秀吉の小田原征伐に、当時の南部氏当主南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵され正式に独立した。このような経緯から南部藩は津軽藩に対し遺恨があった。
また、野辺地西方の烏帽子岳(719.6m)周辺の帰属問題で両藩が紛糾した際に、弘前藩は既得権益を積み重ね書類などを整備して仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はそれができなかったため、この地域は津軽藩のものと裁定された。 八甲田山山系を境界とするならば、この地区は盛岡藩の地区になるため、この処置は盛岡藩に不満をもたらした。これを檜山騒動という。(この騒動は相馬大作事件の107年も前の出来事である)。
さらに、1820年南部利敬が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。混乱の中、南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無冠であった。対する津軽寧親はロシアの南下に対応するために北方警備を命じられ、従四位下に叙任された。また高直しにより津軽藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては自分たちの家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、自分たちより上の地位にいることが納得できなかった。
[編集] 事件の経過
秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝える。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現大館市白沢の国道7号線沿い。物語では矢立峠とされることが多く、物語の記述には沿うが、誤っている地点に現在立て札もある)付近で鹿角市花輪の関良助ら門弟4人と大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、仲間の密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。(物語の多くでは木砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らなかったし、小銃しか秋田藩に持ち込めなかった。)密告した人は後に津軽藩に仕官することになる。
暗殺の失敗により秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。しかし、幕吏(実は津軽藩用人笠原八郎兵衛)に捕らえられ1822年8月千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年は34歳であった。一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩し、また参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められた。寧親は数年後、隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。事件から隠居までの期間、南部藩では当主替玉相続作戦などを行っていて、津軽どころではなかった。しかし寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。
[編集] その後
当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、津軽藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。実際は津軽寧親は普通に隠居し、その後は風雅を楽しんで暮らしている。
この事件は藤田東湖らに強い影響を与えた。当時15~16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』を著した。この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』著した。これらはさらに吉田松陰に影響を与える。彼は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ暗殺が成功したか地元住民にたずね、また長歌を詠じて秀之進をたたえた。吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、南部、津軽両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。ただ、松浦静山は「児戯に類すとも云べし」とこの一件を酷評している。
南部藩の御用人であった黒川主馬等が提唱した忠義の士相馬大作を顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。この供養碑には頭脳明晰となる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に預かろうと石塔を砕いてお守りにする人が後をたたなかったという。黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。
妙縁寺には秀之進の首塚がある(住職の日脱が秀之進の伯父であったため首を貰い受けた)。また、秀之進の供養のために1852年10月、南部領盛岡に感恩寺が建立され、秀之進の息子(後の英穏院日淳贈上人)が初代住職となった。妙縁寺と感恩寺はいずれも日蓮正宗の寺院。
また、谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年2月右団次によって建立された。
[編集] 講談
江戸時代の講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は現在は発見されていない。明治17年の改新新聞に連載された『檜垣山名誉碑文』が明治18年に刊行された。明治21年には講談「檜山麒麟の一声」が講釈師柴田南玉によって演じられ、相馬大作の勇武を持ち上げ人気を博した。『檜山実記・相馬大作』などの演題も、田辺南竜・邑井一・邑井貞吉などの講釈師が演じたという。
津軽藩を一方的に悪者に仕立てたこれらの講談に対して、津軽旧臣が騒ぎだし訴訟になっている。警視庁では公演や芝居は差し止め、刊行本は発売禁止としたが、押さえきれず、表の看板をはずしたなかで興行はつづいた。大正12年東京八丁堀では講釈師神田魯山が興行を行った。昭和2年には東京神田での宝井琴慶、浅草での西尾麟慶の興行などが有名になっている。宝井琴慶の「檜山」は、相馬大作が江戸両国橋上で津軽家の御乗物に発砲し、仕損じて木更津に逃げるという筋書きであるという。
[編集] 相馬大作を扱った小説、映画、ドラマ、漫画
小説
映画、ドラマ 俳優、タイトル及び放送年
- 尾上松之助『檜山騒動(騒動檜山二代目)』映画・大正3年
- 尾上松之助『相馬大作』映画・大正7年
- 尾上松之助『檜山騒動』映画・大正7年
- 澤村四郎五郎『相馬大作(桧山大騒動)』映画・大正7年
- 尾上松之助『相馬大作』映画・大正9年
- 尾上松之助『相馬大作漫遊記』映画・大正10年
- 澤村四郎五郎『相馬大作』映画・大正11年
- 阪東太郎『相馬大作』映画・大正15年
- 河部五郎『鬼傑の叫び』映画・昭和2年
- 片岡千恵蔵『相馬大作 武道活殺の巻』映画・昭和4年
- 河津清三郎『三人の相馬大作』映画・昭和6年
- 尾上栄五郎『相馬大作』映画・昭和9年
- 嵐寛寿郎『江戸の龍虎』映画・昭和17年
- 嵐寛寿郎『檜山大騒動』映画・昭和32年
- 堀雄二『講談ドラマ 相馬大作』テレビ単発・昭和39年
- 堤大二郎『八百八町夢日記スペシャル みちのく忠臣蔵』日本テレビ単発・平成3年
漫画
- よこきけんじ『相馬大作』漫画王1956年2月号