王陵
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沛県の豪族で飾り気がなく直言を好む人物であった。漢の高祖劉邦も大成前は王陵を兄として仕えていたことがあった。
高祖が挙兵し咸陽を落としたころ、王陵は数千の兵を集めて南陽に割拠し、高祖に従おうとはしなかった。高祖が項羽と戦うようになると、王陵は漢に属するようになった。項羽は王陵の母を人質にして王陵を従わせようとしたが、王陵の使者が項羽の元を訪れた際、王陵の母は「漢王(高祖)に従うように。私のために二心を持ってはいけません」と使者に伝えさせると、自分は剣に伏して自殺した。項羽は怒ってこの母を煮た。王陵は高祖に従属し続けた。
王陵は従属が遅く、また高祖の宿敵雍歯と仲が良かったことから、列侯に封じられるのが遅かった。高祖6年(紀元前201年)8月に安国侯(5000戸)に封じられる。
恵帝6年、相国曹参の死を受けて王陵が右丞相、陳平が左丞相となった。
恵帝の死後、呂后は自分の一族呂氏を王にしようとした。王陵にそのことを尋ねたところ、「高祖は「劉氏以外で王になるものがいたら天下皆でこの者を討て」と白馬を生贄にして盟を行いました。呂氏を王とするのはこの盟に背くものです」と答えたため、呂后は喜ばなかった。同じことを陳平、周勃らに尋ねたところ、「高祖は天下を統一すると自分の子弟を王としました。今は皇太后(呂后)が天下を治めているのですから、呂氏の子弟を王として問題はありません」と答え、呂后を喜ばせた。王陵は後で陳平らを「君たちは高祖との盟の時にその場にいなかったのか?何の面目があって死後の世界で高祖に会えるというのだ」と責めたが、陳平は「朝廷で主と面と向かって争う点では私は貴方にかないませんが、社稷を全うし、劉氏の後継者を定めるという点では貴方は私に及びません」と答え、王陵は言い返せなかった。
呂后は王陵を疎んじ、呂后元年(紀元前187年)に王陵を太傅に祭り上げて宰相の実権を奪った。王陵は怒り、病気を理由に辞職して屋敷の門を閉じ、朝廷にでることもなくなった。
呂后8年(紀元前180年)に死亡した。武侯と諡された。哀侯王忌が安国侯を継いだ。安国侯は王陵の玄孫の代になって酎金の事件により断絶した。
[編集] 参考文献
巻1下高帝紀下、巻16高恵高后文功臣表、巻19下百官公卿表下、巻40王陵伝