熊谷元直
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熊谷 元直(くまがい もとなお、生年不詳 - 永正14年10月22日(1517年11月5日))は室町時代後期の安芸武田氏の家臣。熊谷膳直の子。熊谷信直・熊谷直続の父親にあたる。
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元直も父同様安芸武田氏に属し、1506年、諸領を武田元繁から与えられた。やがて中国地方は大内氏の勢力が拡大し、安芸武田氏もその麾下に属するようになった。しかし武田氏は尼子氏の支援の下、安芸守護への復帰を目指し大内氏へ反旗を翻すこととなり、元直もそれに従っている。
1517年、武田元繁は今田城に拠り、吉川氏の所領である有田城を激しく攻め立てた。これに対して大内側は毛利氏後見役毛利元就と吉川氏当主吉川元経が有田城救援に来援し、武田軍と激戦を繰り広げた。熊谷元直も出陣し有田中井手の戦いにおいて武田元繁の先陣を務め、元就の猛攻に遭い、熊谷元直は討死した。これに激昂した武田元繁も毛利軍に突撃し、討死。安芸武田氏は衰退していくこととなる。
有田中井手合戦で討死した元直の遺体を、家臣が持ち帰らなかったことに憤慨した元直の妻は、女一人で有田まで出掛け、夫の元直の遺体を探した。遺体は見付けたものの、女手で持ち帰るにはあまりにも重く、泣く泣く元直の右腕を切断して持ち帰った。その腕は熊谷氏の菩提寺の観音寺の井戸で洗われて、埋葬されたと言う伝承が残っている。
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熊谷 元直(くまがい もとなお、弘治元年(1555年) - 慶長10年7月2日(1605年8月16日))は、毛利氏の家臣。妻は佐波隆秀の娘。熊谷高直の子で、熊谷信直の嫡孫。子に直貞・元貞。初名は元貞。
[編集] 生涯
毛利氏の家臣として、四国征伐や九州征伐、小田原征伐や文禄の役などに従軍して活躍する。1587年、黒田孝高の影響を受けてキリシタンとなり、メルキオルという洗礼名を名乗った。後に主君の毛利輝元からキリスト教の棄教を命じられたが応じなかったため、1605年にかねてから命じられていた萩城の築城の遅れ(益田元祥との権力争いの側面もある)を口実に一族の天野元信らと処刑された。熊谷氏の家督は元直の末子の熊谷元貞が継いでいるが、熊谷氏に以前ほどの権力は無く、毛利家中の一武家として没落の道を歩むのである。ちなみに元直は現在もキリスト教の殉教者として扱われている。
この粛清の際に元直の妻、次男二郎兵衛、末子猪之介も殺害された。
なお2007年3月4日、ローマ教皇庁が17世紀前半に江戸幕府の迫害を受けて殉教した日本人カトリック信徒188人に対して「福者」(ふくしゃ)の敬称を与える方針であることが判明。福者は殉教者などに与えられる敬称で、「聖人」に次ぐ高位の敬称である。修道女マザー・テレサは2003年に福者に列せられている。日本人殉教者を列福する案は、1981年に当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が日本を訪問した際に浮上。2007年2月の枢機卿会議で承認された。現在の教皇ベネディクト16世が6月に正式承認した。
熊谷氏は元直の死により、その家名を没落させたものの、その元直の死から402年を経て、名誉の回復がなされることとなった。
[編集] 関連項目
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