湯治
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湯治(とうじ)とは、温泉地に長期(少なくとも一週間以上の)滞留して特定の疾病の温泉療養を行う行為である。日帰りや数泊で疲労回復の目的や物見遊山的に行う温泉旅行とは、本来、区別すべきである。
湯治についてはかかりつけの医師と良く相談し、目的と効能を明確にしてから行うべきである。できれば湯治先の温泉地にも、できれば医師や看護師などから入浴方法や体調の維持などのアドバイスを受けられる体制が整っていることが望ましい。
素人判断で行う湯治は、効果を半減するばかりではなく、場合によっては悪化させることもあるので要注意である。
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[編集] 歴史
湯治という行為は、日本においては古くから行われていた。衛生に関する知識や医療の技術が十分に発達していなかった時代、その伝聞されていた効能に期待して、多くの人が温泉につかったり、飲泉することで病気からの回復を試みていたということである。
体の特定の部位に対する効能が良いとされた温泉には、例えば貝掛温泉の異名である目の湯のように、特にその部位名を冠した名称も持ち合わせ、多くの湯治客を集めた。
古くは湯治を行っていたのは権力者など一部の人に限られていた。一般の人の間でも湯治が盛んに行われるようになったのは、江戸時代以降である。これは、街道が整備されたことにより遠方との往来が容易になったためである。草津温泉などは、梅毒に苦しんでいた江戸の町人が多く湯治に訪れたという。合戦が行われなくなったことにより、農閑期に時間が発生した農民が、蓄積した疲労を癒す目的で湯治を行うようにもなった。
また、江戸時代に東海道を旅する際に、宿場に指定されていた小田原宿ではなく、箱根温泉に宿泊を希望するものが多かった。だが、当時は長期滞在を前提とした湯治客のみが箱根温泉に宿泊できたため、一泊のみの旅行者は泊まることができなかった。その抜け道として、一日だけ湯治を行うとする一泊湯治などと称して箱根温泉に宿泊したという。
明治時代以降、医学の近代化が図られた際に、湯治の近代化として滞在型温泉療養施設の建設がドイツのエルヴィン・フォン・ベルツ博士から提案されたが、建設には至らなかった。
明治以降医学が発達しても、江戸時代に定着していた湯治文化はすぐに廃れることはなかった。しかし戦後の生活様式の大幅な変化により、文化としての側面が強い湯治も急速に廃れていった。特に農閑期である事を理由とした湯治は、東北地方にわずかに残る[1]のみで実態はほぼ消滅と言える。
現在では、皮膚病治療などで湯治が行われることが多い。また、玉川温泉に見られるような、現在の医学では治療困難とされる病気の治癒を期待して、湯治を行う人も多い。
[編集] 湯治場
湯治場(とうじば)とは、湯治を目的に長期滞留する温泉地のことである。
短期の観光客や保養客を相手にしていないため、山間僻地の質素な温泉地が多い。娯楽施設やTVが無い(多くは電波が入らない、腐食が激しくて設置できない等の理由)宿も珍しくはないので、物見遊山気分で出かけることはお勧めできない。
多くの場合は、自炊が基本となっている。これは、長期滞留客の金銭的負担軽減という理由もあるが、湯治客の症状によっては、日々の食事内容に制限があるため、個々が自分にあった食事を行う必要があること、同じ宿に連泊することでどうしても起こる、食の偏りを防ぐという理由もある。普段と同じ食事をすることで心身を落ち着かせる効果もある。宿泊者のための共同炊事施設が整っており、鍋釜や食器のレンタルや食材の販売などを行っている湯治場もある。食材は、事前に家から持ってきたり、スーパーマーケットで買い込む必要がある。湯治場によっては、自炊部売店が商店並みに充実していたり、温泉街で地の物を売る朝市が行われており、生鮮食品を補充できる場合もある。
宿泊や滞在に必要なものは宿泊先によっても異なっており、旅館への宿泊と違い、寝具一組、浴衣一着、食器・茶器一器にいたるまでレンタル料が発生するので、有料・無料の別は事前に良く確認する必要がある。
後は、どの世界でも言える事だが、人間関係が一番大切である。狭い世界に長時間逗留するので、他の湯治客とのコミュニケーションは必要不可欠である。さまざまな境遇の人が一堂に集まる場であるので、普段聞けないような話が聞け、自分のまったく知らない世界が広がるし、逆に人と交わらなければ、これほど孤独な場もない。普段の地位や世間体を忘れて、親しく交わるべきである。
[編集] 著名な湯治場
湯治場は数多く存在するが、代表的なものとして以下を挙げる