河窪信実
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日) | |||
別名 | 武田信実(別名)、兵庫介(通称) | |||
戒名 | 輪禅寺殿玉麟一機大居士 | |||
氏族 | 武田氏(河窪氏)、川窪氏とも | |||
父母 | 父:武田信虎 母:不詳 |
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兄弟 | 竹松、信玄、犬千代、信繁 |
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子 | 河窪信俊 |
河窪 信実(かわくぼ のぶざね)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の一族で、武田信玄の異母弟に当たる。親族衆に属した。
[編集] その生涯
甲斐の戦国大名である武田信虎の子として生まれる。甲斐河窪村を領したことから河窪氏を称する。騎馬15騎、浪人組313人を与えられ、武蔵雁坂口方面の守備を担当した。後に200騎を与力とする。
元亀2年(1571年)の兄松尾信是の没後、信玄の命により、息子信俊が信是の娘を娶って松尾家を相続し、結果、信実が実質的にその遺領を支配した(知行高397貫余)。史料的価値の高さからよく引用される軍役定書は、松尾遺領を引き継いだ際のものとされる。
[編集] 長篠における戦闘
天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、長篠城内を監視できる鳶ノ巣砦を守備しており、勝頼本隊が信長・家康連合軍との雌雄を決した設楽原決戦には不参。だが、酒井忠次が率いる連合軍別働の奇襲隊が仕掛けてきた奇襲により、信実たちの鳶ノ巣砦の方が設楽原決戦よりも先に会戦した。
5月21日早朝、尾根伝いで酒井隊から無警戒の背後への奇襲を受けた信実らは、中核・鳶ノ巣山の本砦以外にも三枝守友などに託した支砦4つを守備しており、兵数で劣る5つの砦は相互連携できるほど機能的な構造でなかった不備も重なって、分断されたまま防戦に努めねばならず、一段と劣勢下にあった。それでも、信実は小宮山隼人助を片腕として、酒井隊指揮下の松平伊忠や菅沼定盈などを4度は押し返したという。他にも、松平甚太郎家忠が率いる東条松平勢が力任せに砦内侵入を試みようとするのを懸命に凌いでいた。しかし、こちらは陽動で、東条松平勢は精鋭による別口からの進入に動いていた。信実たちが数で劣る現実は厳しく、こちらへの人員が割けずに防衛戦を突破されてしまう。砦内部への侵入を許した時点で善戦から劣勢気味の乱戦に陥ると、やがて姥ヶ懐、君ヶ伏所等の支砦を壊滅させた奇襲隊の別働軍が本砦への増援に加わってくる。こうなると万事休す、これを防ぎ得ずして戦死した。
一説によれば、兵庫信実は東条松平の配下・平岩権太夫に、小宮山隼人助は菅沼定盈の配下に討たれたといわれている。
その兵庫を祭ったものなのか、かつて、鳶ノ巣山には「兵庫塚」と呼ばれた小高い丘が在ったとも言われる。だが、耕地として開墾されてしまったのか、現在では見る影も無いという。
[編集] その子孫
信実の戦死後、嫡子河窪信俊が家督を相続した。天正10年(1582年)の武田家滅亡後は徳川家康に仕え、子孫は旗本(2700石)となっている。その子信貞の代に武田姓に復している。