江戸通長
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江戸 通長(えど みちなが、宝徳2年(1450年) - 明応3年11月12日(1494年12月9日))は、室町時代後期の江戸氏当主。江戸通房の嫡男とされるが、通房の子・通秀の嫡男とする説もある。正室は小野崎義通の娘。常陸国水戸城城主。
寛正6年(1465年)に父の死により家督を継いだ。当時の常陸守護・佐竹氏では、先々代の佐竹義人が一旦家督を譲った嫡男義俊を廃して弟の実定を守護にした事から内紛が生じていた。通長は実定を支持していたが、実定の死後に義俊が常陸太田城に復帰して、実定の嫡男・義定は水戸城の通長を頼った。ところが、義人の死後の文明9年(1477年)に義定の刺客が水戸城を襲撃して義定を暗殺すると、通長はこれに驚いて義俊に降伏した。
その後、佐竹氏傘下として文明13年(1481年)には小鶴原の戦いで小田成治を破り、続いて鹿島郡に進出するなど、常陸南東部に勢力を広げた。ところが、延徳2年(1490年)に山入義藤が佐竹氏に叛旗を翻すとこれに加担したが、子供を遺さずに病死し、家督を弟の江戸通雅が継いだ。