武田信広
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武田 信広(たけだ のぶひろ、1431年(永享3年) - 1494年6月23日(明応3年5月20日))は、室町時代の武田氏の一族。若狭国の守護大名であった武田信賢の子と伝えられている。一説には、陸奥国の南部氏の一族とも言われている。
永享3年(1431年)2月1日、若狭守護武田信賢の子として若狭小浜青井山城に生まれた(書誌には御瀬山城生まれとあるが、同城は大永二年(1522年)に建造されたもので矛盾する。前身である青井山城であろう)。幼名は彦太郎。父信賢は家督を弟武田国信に譲る際に、実子であるこの信広を養子にさせたが、間もなく国信に実子信親が誕生したことで、疎遠されるようになり、実父信賢とも対立して孤立無援になっていったようである(永享3年当時、父と伝えられる信賢は12歳であり、国信は誕生前であったことが分かっているので、この伝説の信憑性は低い。)。
宝徳三年(1452年)二十一歳の時に、家子の佐々木三郎兵衛門尉繁綱、郎党の工藤九郎左衛門尉祐長ほか侍三名をつれて夜陰に乗じて若狭を出奔したという。しばらくは関東の鎌倉公方足利成氏のところに身を寄せていたようだが、この年の内に三戸の南部光政のもとへ移っていった。陸奥国宇曽利に移住し、南部家の領分から田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗るようになった。さらに享徳3年(1454年)8月28日生駒政季を奉じて南部大畑より蝦夷地に渡り、上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。蠣崎季繁に気に入られてその養嗣子となった。このとき、蠣崎信廣と改めている。康正2年(1456年)に嫡男光広を生んでいる。
1457年にはアイヌ民族による日本武士の館への一斉襲撃があり、日本武士団とアイヌ民族の間でコシャマインの戦いが開戦した。開戦当初は、奇襲攻撃をくらった日本の武士たちが追い詰められていたが、蠣崎季繁のもとにいた武田信広が日本武士たちをまとめあげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとうアイヌ軍総大将コシャマインの首も討ち取った。この鎮定の功績は大きく、武田信広の蝦夷地における地位は決定的となった(松前藩の史料は後代に作成されたものほど信広の地位を高く記載する傾向があるため、実際の地位は不明である。)。1462年には勝山館を築城している。
1475年に、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太を支配下に置いたとされるが、実効支配していたとはいえず(勢力から考えても不可能であったと思われるが)、放置も同然であった。
1494年6月23日に64歳で死去した。彼の子孫も着実に蝦夷地の平定を進めていき、のち松前氏と改姓して江戸時代には蝦夷地を支配するに至っている。
[編集] 関連項目
- 国鉄7100形蒸気機関車 - このうちの1両に「信廣」の愛称が付されている。
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