橘常主
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橘 常主(たちばな の つねぬし、延暦6年(787年) - 天長3年6月2日(826年))は、平安時代前期の官人。贈太政大臣橘奈良麻呂の孫。正五位下橘島田麻呂の六男。母は従三位刑部卿淡海三船女。子に三夏、安喜雄ら。別名は当主(あてぬし)ともいう。
弘仁8年(817年)正月叙爵。以後、少納言、蔵人頭、左中弁、左近少将などを歴任した。弘仁12年(821年)4月従四位下に昇進し、修理大夫・中務大輔・式部大輔を兼官した。翌年の弘仁13年(822年)3月参議に任ぜられた後、弾正大弼となり、天長2年(825年)には下野守に補任された。天長3年(826年)6月2日、40歳で卒去。「公卿補任」「尊卑分脈」によれば「世に云う。件の常主は薪を積み其上に居して焼死す。勅使有りて問られる」という異常な死に方だったと噂されたらしい。常主は嵯峨天皇の命で藤原冬嗣らとともに「弘仁格式」の編纂に参加したが、天長7年(830年)の撰上を見ずに死去した。