植村家存
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
植村 家存(うえむら いえさだ、天文10年(1541年) - 天正5年(1577年))は戦国時代の武将。徳川氏の家臣。植村氏明の子。通称、新六郎。名は初め栄政、その後徳川家康から偏諱を受けて家政、後に家存。子に植村家次。 祖父植村氏義の娘の小夜は本多忠高に嫁ぎ、本多忠勝の母にあたる。 植村氏明は本多忠勝の伯父、植村家存は従兄弟にあたる。
天文18年(1549年)、9歳の時から家康に仕える。その後、天文21年(1552年)に父が死去したため家督を継承。
永禄5年(1562年)、清洲同盟の時は主君・徳川家康の護衛を務める。この時、織田信長についてゆき、家康一行が書院に入ろうとしたが、家存が家康の刀を持ったまま入室しようとした為、織田家の家老・柴田勝家に
「ご老人、待たれよ!殿のにては他家の太刀持ちが同行する事は許されぬ。この柴田勝家が許さぬぞ!」
と一喝されたが、これに対して家存の方は、
「これはしたり、老輩呼ばわりとは。我が名は植村新六郎なり。先々代からの太刀持ちなれば、元康(この時家康は元康と名乗っていた)さまのおそばについてまかり通るぞ!」
と逆に一喝。これに対し柴田勝家は腰がひけたという。この時、現場を目撃した織田信長に、
「勝家の気合負けじゃな。ご老人、そなたの稀なる功名は尾張にも届いておる」
と、賞賛された。会見後、織田信長は護衛役の新六郎に二振りの行光の太刀の大太刀の方を新六郎に与えた(ちなみに小太刀の方は同じく護衛役を務めた孫?の本多忠勝に与えられた)という。 酒井忠次や石川数正らと共に家康の重臣として活躍したが、天正5年(1577年)に37歳で没した。