柴田勝敏
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 | |||
生誕 | 永禄11年(1568年)? | |||
死没 | 天正11年5月12日(1583年7月1日) | |||
改名 | 於国丸、勝敏 | |||
別名 | 権六、権六郎(通称) | |||
氏族 | 柴田氏 | |||
父母 | 父:柴田勝家(養父とも) | |||
兄弟 | 義兄弟:勝政、勝豊、勝敏、勝之 |
柴田 勝敏(しばた かつとし)は、戦国時代の武将。柴田勝家の養子といわれるが、実子説もある。
[編集] 生涯
永禄11年(1568年)に生まれる。柴田勝家の実子とも養子ともいわれている。ただし勝家から通称の「権六」を与えられているため、子に恵まれなかった勝家からかなり溺愛されていたものと推測される。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉に敗れて自害した後、勝敏は家臣の手引きで逃走した。しかし秀吉の執拗な探索によって捕縛され、5月12日に近江佐和山で処刑された。享年16。ただし年齢に関しては諸説があり、12歳説や14歳説もある。