松旭斎天勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松旭斎 天勝(しょうきょくさい てんかつ、本名、中井かつ、1886年5月21日 - 1944年11月11日)は、明治後半から昭和初期まで興行界で大成功した女流奇術師。東京、神田生まれ。
1895年 (明治28年)、神田松富町の質屋の娘だったが家業が失敗、門前仲町のテンプラ屋に奉行人として勤める。店主が当時の一流奇術師・松旭斎天一(しょうきょくさい てんいち)だった事が縁で、器用さを見込まれ弟子として採用された。後に天一に妾になるよう迫られ、自殺を図るも一命は取り留める。それからは 奇術を積極的に自分の物にすると決心、妾を宿命とし受け入れた。弟子70人を数える『天一一座』でスターとして頭角を表わし、「天勝」として舞台へ出演した。
日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、数度に渡るアメリカ興行も成功させた。帰国後の公演では、スパンコールの衣裳に付け睫毛という日本初の欧米風なマジックショーを披露。モダンさと目新しさに大衆は熱狂した。
1911年(明治44年)、27歳で独立。座員100名を越す『天勝一座』の座長になった。一座のマネジャーを務めた野呂辰之助と結婚。奇術師の立場が強くなかったこの時代、一座と天勝を守るため野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている。
「奇術といえば天勝」という代名詞にもなったほどの知名度を誇り、キャラクター商品なども大ヒットした。当時の得意芸としては水芸などがある。この人気と知名度とにあやかったニセ物の "天勝一座" も複数現れたと言われる。
引退後は二代目へ天勝の名を譲る。50歳を過ぎてからスペイン語の学者と出逢い、一生を添い遂げた。
二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)も遡れば松旭斎一門へたどり着く。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 日本奇術協会監修『七十年の歩み : 社団法人日本奇術協会創立七十周年記念誌』日本奇術協会、2006年。