松平長孝
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保10年7月30日(1725年9月6日) | |||
死没 | 宝暦12年閏4月29日(1762年6月21日) | |||
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 | |||
官位 | 従四位下、越後守。侍従 | |||
藩 | 美作津山藩主 | |||
氏族 | 越前松平家 | |||
父母 | 父:松平近朝、母:槙島氏 養父:松平宣維のち松平長煕 |
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妻 | 正室:藤堂高治の娘・岸 側室:夏目氏、羽倉氏、小宮山氏、 天野氏、重松氏、飯田氏 |
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子 | 松平康哉(長男)、松平直義(次男) 松平長裕(三男)、金田正彜(四男) 娘(松平信有正室のち大田原庸清正室) |
松平 長孝(まつだいら ながたか)は、美作津山藩の第4代藩主。越前松平家宗家7代。
享保10年(1725年)7月30日、出雲広瀬藩の第3代藩主・松平近朝の三男として生まれる。
はじめ本家の出雲松江藩主・松平宣維の養子であったが、津山藩の第3代藩主である松平長煕が嗣子無くして享保20年(1735年)に早世したため、その養子となって家督を継いで第4代藩主となる。藩政においては庄屋制度を廃止して地方目付を配置するなど、それなりの政治力を見せたが、宝暦12年(1762年)閏4月29日に死去。享年38。
後を長男・康哉が継いだ。
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