松平康宦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 明暦3年(1657年) | |||
死没 | 享保12年4月9日(1727年5月29日) | |||
別名 | 松千代丸(幼名)、康長、康賢、 康程(別名)、優山(法号) |
|||
戒名 | 泰嶺院殿相誉寂道至閑大居士 | |||
墓所 | 京都府京都市左京区黒谷の光明寺 | |||
官位 | 従五位下、主計頭。周防守。弾正少弼 | |||
藩 | 石見浜田藩主 | |||
氏族 | 松井松平家 | |||
父母 | 父:松平康映 | |||
兄弟 | 松平康宦、松平康明 | |||
妻 | 正室:阿部正能の娘 | |||
子 | 松平康員(長男)、松平康房(次男) | |||
特記 事項 |
名は「康官」とも言われる。 名前の読みは「やすひろ」とも言われる。 |
松平 康宦(まつだいら やすのり)は、石見浜田藩の第2代藩主。松井松平家3代。
明暦3年(1657年)、初代藩主・松平康映の三男として浜田で生まれる。兄が早世したために世子となり、寛文11年(1671年)12月28日に従五位下・主計頭に叙位・任官する。延宝2年(1674年)12月に父が死去したため、延宝3年(1675年)2月25日に家督を継いで第2代藩主となり、4月に周防守に遷任する。
延宝4年(1676年)12月15日、弟の松平康明に邑智郡八色石で新田2000石を分与した。宝永2年(1705年)1月27日、家督を長男の松平康員に譲って隠居し、弾正少弼に遷任する。享保12年(1727年)4月9日に浜田で死去した。享年71。
|
|
|