本多延嘉
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本多 延嘉(ほんだ のぶよし、1934年2月6日 - 1975年3月14日)は、日本の新左翼活動家。中核派の最高指導者。
[編集] 経歴
1934年2月6日 東京神田和泉町に出生。父は全逓労働者。 浅草鳥越で育つ。浅草柳北小学校に入学。 第二次大戦中は、一家とともに埼玉県北足立郡足立町(現志木市)に疎開。同地で宗岡小学校を卒業。
1946年4月 県立旧制川越中学校入学。中学生で日本共産党の青年組織・青年共産同盟(のちの民主青年同盟)に加盟。埼玉県立川越高等学校で共産党に入党。 1953年4月 早稲田大学第二法学部入学。 1954年4月 早稲田大学第一文学部国史学科に転入学(1958年中退)。 早稲田大学新聞編集長として精力的に活動。早大新聞、共産党早大細胞(当時四百名いた)の指導的地位を占める。
1956年のハンガリー動乱に衝撃を受け、既成の日本共産党の組織および理論・路線を「スターリニズム」として決別し、1957年末 黒田寛一の弁証法研究会に参加する。さらに日本トロツキスト連盟(トロ連)結成に参加した。1958年 トロ連が発展して結成された革命的共産主義者同盟内部で黒田寛一らと「革命的マルクス主義グループ(RMG)」を形成し「トロツキズムを乗り越えた」と称する「反スターリン主義派」として、国際革命組織第四インターナショナルへの革共同の加盟を主張する西京司らの組織内「トロツキスト派」と対立した。
1959年に黒田による共産党の情報を警視庁に売ろうとしたスパイ事件が発覚(いわゆる「黒田・大川スパイ問題」)。本多は一貫して黒田を弁護し、同年八月の革共同第一回大会で除名された黒田の後を追って革共同を脱党。8月31日、黒田とともに革命的共産主義者同盟全国委員会を結成。黒田は議長、本多は書記長に就任する。
1962年の革共同第3回全国委員会総会で、本多が起草した議案の「党建設方針」や「労働運動方針」をめぐって、黒田との理論的対立が表面化。1963年2月に黒田派が分裂し、革マル派を結成。本多派は中核派と称されるようになる。
1975年3月14日未明、埼玉県川口市の自宅マンションで就寝中、革マル派の襲撃を受け殺害される。
著書『勝利に向かっての試練』『本多延嘉著作選』(全7巻)など。
[編集] 逸話
- 中島みゆきファンだった
- ジャイアンツファンだった
- 卒業単位は取っていたが、周囲へのケジメとして退学。