本多康禎
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本多 康禎(ほんだ やすつぐ、天明7年(1787年) - 嘉永元年(1848年)10月)は、近江膳所藩の第12代藩主。康俊系本多家宗家12代。
7代藩主本多康桓の嫡子でのち廃嫡された本多忠薫の三男。第11代藩主・本多康完の弟に当たる。正室は島津斉宣の娘。子は本多康融(長男、第11代藩主)、朽木綱張(次男、丹波福知山藩第12代藩主)、谷衛弼(三男、丹波山家藩第12代藩主)、本多康穣(六男、第12代藩主)、植村家保(七男、大和高取藩第13代藩主)。官位は従五位下、従四位下、下総守。兵部大輔。
文化3年(1806年)、兄で先代藩主の康完の死去により跡を継ぐ。幕命により近江国粟田郡の検地を担当し、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱では藩兵を摂津・丹波に派遣した。弘化4年(1847年)4月13日、長男の康融に家督を譲って隠居し、翌年10月に62歳で死去した。
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