服部武夫
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服部 武夫(はっとり たけお、1932年11月28日 - )は、三重県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手。
[編集] 来歴・人物
四日市高校から1950年に南海ホークスへ入団。1951年に31試合登板し、10勝7敗、防御率2.03を記録して南海の優勝に貢献した。防御率2.03はリーグ1位の成績だったが、この年だけ導入された資格投球回数算定法によって南海ホークスの標準回数が164回と決まっており、投球回数が155回だった服部は規定未満として最優秀防御率のタイトルを逃し、2.08で2位だった同僚の柚木進がタイトル獲得となった。日本シリーズにも出場し、第1戦、第2戦はリリーフで登板。第4戦は先発で8回まで無失点だったが9回に読売ジャイアンツ打線に打ち込まれ3点を失って降板。リリーフした柚木が後続をしっかりと抑え、服部が勝ち投手となった。翌年は自己最多となる16勝を挙げた。この年の日本シリーズも第4戦で先発するが負け投手となっている。1953年は1軍での登板無く、1954年に高橋ユニオンズへ移籍するが勝利できず、1956年に毎日オリオンズへ移籍。1958年に広島カープへ移籍し、同年引退。1952年以降はまったく勝利することができなかった。
引退後は地元の四日市に戻り、服部野球教室を開設し少年たちに野球の指導を行う。
[編集] 背番号
- 34 (1950年)
- 27 (1951年~1953年)
- 15 (1954年~1955年)
- 41 (1956年~1957年)
- 28 (1958年)
[編集] 通算成績
100試合 26勝18敗 勝率.591 投球回数415.1 187奪三振 防御率2.75