月桂院
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月桂院(げつけいいん、永禄11年(1568年)-明暦元年(1655年))は、小弓公方家足利頼淳の娘。名は嶋子(しまこ)あるいは嶋姫(しまひめ)・お嶋(おしま)。初めは倉ヶ崎城主塩谷惟久の正室。後に豊臣秀吉の側室。
お嶋は、関東管領・古河公方家の分家である小弓公方の血を継ぐ名門の姫君であり、秀吉の側室達の中では、もっとも高い家柄の出となる。また、お嶋の最初の夫である塩谷惟久も、お嶋の喜連川家と同じく源義家の血を引き、源頼朝から、塩谷郡に役二万石相当の領地を与えられた名家の出であった。
天正18年(1590年)、小田原の役の後、奥州仕置に向かった秀吉が古河の方にやって来ると、お嶋の夫の惟久は妻の彼女を置いて逃亡してしまった。夫に置き去りにされたお嶋は、その後、秀吉と面会し、秀吉の側室になった。
お嶋は夫の塩谷家ではなく、実家の救済を秀吉に嘆願した。お嶋は、弟で足利義明の孫でもある足利国朝と古河公方家の義明の娘である足利氏姫を結婚させ、天正10年(1582年)の足利義氏の死によって、実質的に断絶してしまっていた鎌倉公方系足利氏を復興させる事を、秀吉に頼んだのであった。秀吉はお嶋のために、喜連川3800石の化粧料を与え、初めはぜひとも大変な名門の出であるお嶋に、自分の血を引く子供を生んでくれる事を期待していたと思われる。
天正19年(1591年)に、お嶋の願いを聞き入れ国朝と氏姫を結婚させた。しかし、氏姫は気位の高い姫で、当時、わずか300石を有するだけの貧乏生活を送っていたが、「素性よろしからず」と秀吉の出自が低いのを見下したため、一時は見捨てられたような状態になり、お嶋のとりなしによって、天正18年に332石を与えられ、やっと貧困生活から抜け出せたという。
お嶋は、秀吉の死去した慶長3年(1598年)、京都の東寺で出家した。翌年の慶長4年(1599年)に江戸に来て、市ヶ谷の月桂寺に住んだ。明暦元年に死去。