春日三球・照代
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春日三球・照代(かすがさんきゅう・てるよ)は、日本の夫婦漫才コンビ。
就中「地下鉄の電車はどこから入れたの?それを考えてると一晩中寝られないの。」のフレーズで有名な「地下鉄漫才」で1970年代後半に一世を風靡し、立川談志をして「漫才でトリがとれる」と言わしめた。
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[編集] 来歴
春日三球はリーガル千太・万吉の門下生で、別の男性と「クリトモ一休・三休」の名で漫才コンビを組み、1957年に初舞台。「クリトモ」の屋号は、当時南千住にあった漫才の定打寄席「栗友亭」に因んだもの。[1]並居る若手の中でもテンポの良さで売り出し、1962年には春のNHK漫才コンクールで優勝(当時、NHK漫才コンクールは春と秋の2回開催されていた)して、順風満帆のように思われた。
ところがその直後の同年5月に、相方の一休が三河島事故によって急逝したため、上方の女性音曲漫才コンビの片割れで、自分と結婚引退したばかりの妻の照代と1965年に「春日三球・照代」を組み直し、夫婦漫才コンビで再出発した。
売れる前は三球がウクレレを、照代がギターを持ち、テーマソングの『線路は続くよどこまでも』を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、1970年代中頃には「地下鉄漫才」が大ブレークして全国区になった。地下鉄ネタに続き、新幹線ネタや山手線ネタなど、鉄道ネタをシリーズ化して人気を維持した。
しかし1987年に妻の照代が急逝し、三球は再び人気絶頂で相方を失う憂き目に遭う。失意の三球を見兼ねた周囲が、漫才経験のある若手女性芸人・芳賀みちるを世話してコンビを組ませ、舞台に復帰させたものの、くすぶったまま1年程で解消。
三球はその後も暫く精彩を欠くが、傷心が癒えると共に漫談家として再起した。巣鴨地蔵通り商店街に、巨大な似顔絵看板(山藤章二筆)を掲げた「健康肌着の店-春日三球の店」も経営し、ババシャツブームに乗って盛業中である。巣鴨つながりで、青空うれしと組んで掛け合いも時折見せているが、本格的な漫才コンビ再結成には到っていない。
[編集] メンバー
- 春日照代(かすが てるよ、 1935年12月8日 - 1987年4月1日)は、妻。ツッコミ担当。テレビ番組「新伍のお待ちどおさま」(TBS)出演中に突然くも膜下出血により倒れ、そのまま心不全により帰らぬ人となった。享年51。
[編集] 兄弟弟子
[編集] 主な出演番組
- おはようワイド・土曜の朝に(朝日放送)
- お笑い大集合(フジテレビ)
- 花王名人劇場(関西テレビ)