明通寺
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明通寺 | |
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本堂と三重塔(共に国宝、2006年11月) |
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所在地 | 福井県小浜市門前5-22 |
位置 | 北緯35度27分12.78秒 東経135度48分16.02秒 |
山号 | 棡山(ゆずりさん) |
宗派 | 真言宗御室派 |
本尊 | 薬師如来(重要文化財) |
創建年 | 伝・大同元年(806年) |
開基 | 伝・坂上田村麻呂 |
札所等 | 小浜国宝巡り6番 |
文化財 | 本堂、三重塔(国宝) 木造薬師如来坐像、木造深沙大将立像、木造不動明王立像(重要文化財) |
明通寺(みょうつうじ)は、福井県小浜市門前にある真言宗御室派の寺院。山号は棡山(ゆずりさん)。本尊は薬師如来。大同元年(806年)、坂上田村麻呂によって創建されたと伝えられる。本堂と三重塔は国宝に指定されている。
目次 |
[編集] 歴史
「明通寺縁起」(応安7年・1374年奥書)などによれば、大同元年(806年)、北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したとされる。地方寺院の例に漏れず、中世以前の沿革はあまり判然としていない。現存する本堂、三重塔は鎌倉時代中期、13世紀のもので、中興の祖である僧・頼禅によって復興されたものである。
[編集] 建築
- 本堂(国宝)
- 正嘉2(1258)年上棟、文永2(1265)年落成。石垣の基壇上に建つ入母屋造、檜皮葺きの建物。平面は桁行(間口)5間(14.72m)、梁間(奥行)6間(14.87m)である(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。屋根や隅軒の悠然とした勾配は鎌倉時代の特色を示す。正面側を全て蔀戸(しとみど)とした住宅風の外観をもつ。和様を基調としつつ、内部の構架には禅宗様の要素も取り入れている。堂内は内部空間を内陣と外陣(礼堂)に明確に区画する中世仏堂特有の構成で、寛政11(1799)年に内陣を拡張したとの記録がある。大正12年(1923年)に解体修理。昭和28年(1953年)、国宝に指定。
- 三重塔(国宝)
- 文永7(1270)年上棟。総高22.12m。和様を基調としているが、初層に拳鼻(こぶしばな、部材の末端部に拳状の装飾彫刻を施したもの)を用いる点に大仏様(だいぶつよう)の要素が現れており、塔に拳鼻を用いた最古例とされている。初層内部は四天柱(仏壇を囲む4本の柱)が立ち、釈迦三尊像と阿弥陀三尊像を安置して仏堂風の扱いとする(心柱は初層天井裏から立つ)。柱や壁には十二天などの絵画を描くが、建立当初のものではない。天文8(1539)年と元禄15(1702)年に、それぞれ修理が行われた。明治27年(1894年)以降、屋根は瓦葺となっていたが、昭和32年(1957年)の修理の際、桧皮葺に戻された。昭和28年(1953年)、本堂とともに国宝指定。明通寺の創建1,200年を記念して、2006年4月から11月まで初層内部が一般公開された。
[編集] 文化財
- 重要文化財
- 木造薬師如来坐像:平安末~鎌倉初期頃の作。像高144.5cm。寄木造。明通寺は創建以来、3度の火災で焼失しており、この本尊も火災の後に造立されたと思われる。男性的な力強い像容で、藤原期の温雅な作風と異なる点から、平安末から鎌倉期の過渡期的な作と思われる。
- 木造降三世明王立像:平安後期の作。像高252.4cm。一木造。本尊厨子の向かって右側に安置されるが、本来の脇侍ではないとみられ、五大明王の一尊として造像された可能性もある。四面八臂、足下に大自在天と烏摩(うま)を踏みしめた、儀軌に忠実な像容に表される。右脇侍(向かって左)の深沙大将と像容がよく似ていることから、同時期の作と思われる。
- 木造深沙大将立像:平安後期の作。像高256.6cm。一木造。本尊の向かって左に安置されている。頭部に髑髏を戴き、腹に幼女の首を着けた異形の護法善神として表される。深沙大将とは、砂漠の毒蛇を神格化したインドの神で、『西遊記』に登場する流砂河の主・沙和尚(沙悟浄)のモデルとなった。日本では護法十六善神の一尊として、絵画に表されるが、彫像はまれである(重要文化財に指定されている像は、他に岐阜県の横蔵寺、京都府の金剛院像のみ)。
- 木造不動明王立像:平安末期の作。像高161.8cm。檜の一木造。明治5年に持仏堂が火災に遭い、本尊の不動明王も焼失したため、羽賀寺の不動明王を譲り受けて祀ったもの。もとは松林寺という寺に安置されていたが、明治に同寺が退転すると、千手観音像・毘沙門天像(両尊は羽賀寺に現存)と共に羽賀寺へ移された。
[編集] 所在地・交通アクセス
- 〒917-0237 福井県小浜市門前5-22