旧相模川橋脚
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旧相模川橋脚(きゅうさがみがわきょうきゃく)は神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目にある国指定史跡。1926年10月20日指定。
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[編集] 橋梁遺構の発見
関東大震災(1923年9月)と1924年1月の2度の大地震の際に小出川沿いの水田から7本の木柱が出現した。その後の発掘により地中になお3本あるのが発見された。当時、沼田頼輔博士が鎌倉時代の相模川の橋脚と考証し、中世橋梁遺構として高く評価されている。沼田頼輔はこの橋を「鎌倉時代1198年に源頼朝の家来であった稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋である」と鑑定した。
[編集] 相模川流路の検証
この橋の出現により、相模川は今よりかなり東を流れていて、氾濫や地震による流路の変遷を経て現在の位置へ移動したとされている。右に震災前の相模川、小出川、千の川の状況を示した[1]。震災で土地が隆起し、北東(右上)から相模川へ流入する千の川は河口を失って大きな沼地(現在の浜見平団地の所)を作った。柳島村は161反歩もの新たな耕作地を得、幕末より続いた藤間温泉の湧水量は激減した。このように大地震が発生するたびに、相模川はその流路を変えてきた。しかし、この橋脚が作られた当時の流路の状況は明確でなく、この橋が相模川の本流・支流とどのような関係にあったかは研究段階である。
[編集] 橋脚の検証
この橋脚は、直径約60センチの檜の丸材で、橋の幅は約7メートルあったと推定されており、当時は全国有数の大橋であったと考えられる。
近年の発掘調査によって、建設当時の護岸を目的としたらしい土留め遺構の一部や、国の史跡に指定された当時の保存工事跡が確認されている。
[編集] 言い伝え
頼朝がこの橋の竣工式に出席した帰りに、平家の亡霊に驚いた馬が暴れて川へ落ち、そのときのケガが原因で死亡したという説がある。この時、警護の武士10人が責任をとって自害し、その墓が龍前院の境内の10基の五輪塔であるとも言われている。この事件によって相模川の下流部分を馬入川(ばにゅうがわ)と称するようなったという説もある。
[編集] 脚注
- ^ (参謀本部陸軍部測量局(1882年測量、1883年製版)を加工)