持明院基規
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持明院 基規(じみょういん もとのり、明応元年(1492年) - 天文20年9月1日(1551年9月30日))は、戦国時代の公卿・書家。藤原北家頼宗流持明院家の当主。初名は家親。号は一忍軒。参議持明院基春の子。母は家女房。室は水無瀬季兼女。中納言持明院基孝の父。
持明院流の祖となった父の後を継いで、朝廷の書役を務めた。大永3年(1523年)12月30日に従三位に叙せられ、官位は正三位権中納言まで昇進した。天文20年(1551年)8月に出家して法名を一貞紹忍とした。戦乱を避けて周防国山口の大内義隆のもとに滞在していたが、陶晴賢の謀反(大寧寺の変)に巻き込まれて死没した。享年60歳だった。