戸田勝成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸田 勝成(とだ かつしげ、弘治3年(1557年) - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は、戦国時代の武将。戸田勝隆の弟。武蔵守。家系は平氏か。名は重政・勝重ともいう。
当初は丹羽長秀・長重父子に仕えていた。丹羽家に内紛があり、それを機に豊臣秀吉の家臣となって、越前国足羽郡安居城主に封ぜられ1万石を領した。秀吉の九州征伐、小田原征伐と歴戦し、朝鮮出兵の折は文禄の役において肥前名護屋に駐屯した。また、伏見城の普請を命ぜられ、その功にて後に1万石を増封された。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に共鳴して西軍方につき、北国口を守備していたが、東軍が迫るとともに美濃方面へと陣を移した。本戦においては、大谷吉継隊に属して奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋に続く脇坂安治・朽木元綱・赤座吉家・小川祐忠ら四隊の寝返りにあい壊滅、織田有楽斎隊の攻撃であえなく敗死。この時、嫡男内記も同じく討死している。
勝成は諸大名と広く親交を深め、東軍の将の中にその死を悼んで涙を流したものが多かった。優れた人物として伝わっており、「謀才俊雄の英士」と称されたという。