戸沢正誠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸沢 正誠(とざわ まさのぶ、寛永17年10月3日(1640年11月16日) - 享保7年2月3日(1722年3月19日))は、出羽国新庄藩の第2代藩主。初代藩主・戸沢政盛の次男。母は側室:楢岡光信の娘・久照院(於佐古)。正室は浅野光晟の娘。子は戸沢正武(三男)、娘(久留島通政正室)、娘(青木重矩正室)、娘(戸沢正成正室)がいる。官位は従五位下。能登守。上総介。
[編集] 経歴
寛永17年(1640年)10月3日(または10月13日)生まれ。幼名は千代鶴。慶安元年(1648年)、父が死去すると、政誠が若年であることと末期相続を理由に、家督相続を最初は認められず、慶安3年(1650年)8月7日になってようやく相続した。このあたりに、幕府の外様大名に対する対応が現れていると思われる。
正誠は藩主権力を強めるため、万治3年(1660年)5月には片岡理兵衛一族を殺害する(片岡騒動)。さらに税制の整備や検地、永松銅山の開発や寺社建立、城下町の建設、家臣の新規召し抱えなどの改革を多数行ない、また、正誠の治世が60年の長きにわたったことから藩政が安定化し、新庄藩は最盛期を迎えた。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政の悪化が見え始める。宝永7年(1710年)2月16日、家督を養子・正庸に譲って隠居した。享保7年(1722年)2月3日、83歳で死去。
|
|
|