慈眼院
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慈眼院 | |
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多宝塔 (国宝) |
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所在地 | 大阪府泉佐野市日根野626 |
山号 | 大悲山 |
宗派 | 真言宗御室派 |
本尊 | 薬師如来 |
創建年 | (伝)天武2年(673年) |
開基 | 覚豪 |
正式名 | 大悲山願成就寺慈眼院 |
別称 | 大井堰御坊慈眼院 |
札所等 | 仏塔古寺十八尊 第12番 和泉西国三十三箇所 客番 |
文化財 | 多宝塔(国宝)、金堂(重要文化財)、境内(国史跡) |
慈眼院(じげんいん)は大阪府泉佐野市にある真言宗御室派の寺院。近世末までは、隣接する日根神社の神宮寺であった。国宝の多宝塔は石山寺塔、金剛三昧院塔とともに日本の多宝塔の3名塔の一つとして知られる。また境内が「日根荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている。仏塔古寺十八尊第十二番。
目次 |
[編集] 歴史
伝承によれば、天武天皇2年(673年)、天皇の勅願寺として、井堰山願成就寺無辺光院の名で覚豪阿闍梨により開創され、奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願寺となり、寺領1千石が加増されたという。その後、弘仁6年(815年)、 空海(弘法大師)によって多宝塔、金堂をはじめとする諸堂が再興されたと伝える。
南北朝の正平8年(1353年)、戦火を受けて焼失。その後、後村上天皇と後亀山天皇の勅命により再興された。
慈眼院の位置する日根(日根野)荘は、五摂家の1つである九条家の荘園であった。文亀元年(1501年)から4年間、前関白の九条政基が日根に滞在して領地の直接経営にあたり、日記「政基公旅引付」(宮内庁書陵部蔵)を残している。
天正13年(1585年)には豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火を受けて、金堂、多宝塔を除いた全山が焼失。その後慶長7年(1602年)、豊臣秀頼によって伽藍の再興が始められ、奥之坊・山之坊・明王院・戒躰院・稲之坊・中之坊・下之坊・東方寺・上之坊・明神社・観音堂・毘沙門堂・護摩堂の堂宇が建立された。寛文年間には岸和田藩藩主岡部氏により修復が行われ、寛文5年(1665年)、中之坊が仁和寺の性承門跡から現在の院号「慈眼院」を賜り、仁和寺の末寺となった。
[編集] 伽藍
- 多宝塔(国宝) - 鎌倉時代、文永8年(1271年)建立。高さ約10m。屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では日本最小。石山寺塔、金剛三昧院塔とともに日本の多宝塔の3名塔の一つとされる。初層内部には大日如来坐像(大阪府指定文化財)を安置する。
- 金堂(国の重要文化財) - 鎌倉時代後期、 方3間、単層、寄棟造、本瓦葺。
- 毘沙門堂(一願薬師堂) - 「柿経(笹塔婆)」安置
- 食野家十三重石塔 - 江戸時代
- 本邦洋式製革始祖碑 - 明治時代
[編集] 札所等
[編集] 所在地
〒598-0021 大阪府泉佐野市日根野626
[編集] 拝観情報
[編集] 参考文献
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』36号、朝日新聞社、1997
[編集] 関連項目
[編集] 周辺情報
- 日根神社 - 式内大社。慈眼院の旧下之坊が日根神社の社務所
- 総福寺天満宮 - 本殿が国の重要文化財