心岳寺
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心岳寺(しんがくじ)は、かつて鹿児島市吉野町に存在した曹洞宗の寺。廃仏毀釈で廃絶し、平松神社と改称した。
[編集] 沿革
島津氏16代当主・島津義久は豊臣秀吉の九州征伐で降伏したが、その後、義久の弟の一人・島津歳久は秀吉に対して反抗的な態度をとり、それを根に持っていた秀吉は文禄2年(1592年)6月(旧暦)に勃発した梅北国兼の乱の首謀者を島津歳久と決めつけ、義久に歳久の首を献上するよう命じた。そのため島津歳久は竜が水の地で自殺に追い込まれた。秀吉が死んだ直後の慶長4年(1599年)には歳久の死んだ地に義久によって菩提寺が建立された。これが心岳寺の始まりで、寺の名前は歳久の戒名の一部より取られた物である。
幕末、守旧派である島津斉興によって処刑されることを知った西郷隆盛は、僧・月照に対し、鹿児島湾沖合の護送船の中で心岳寺を指さしながら島津歳久の梅北国兼の乱の故事を話して心中したという。
[編集] 心岳寺詣り
歳久の人気は地元では絶大な物があり、島津忠良菩提寺の加世田日新寺と島津義弘菩提寺の妙円寺、そしてこの心岳寺に詣でることが大流行した。それぞれの命日にそれぞれの菩提寺に詣でるこの習慣は「鹿児島三大詣り」と呼ばれたが、実際は「お参り」というより夜を徹して長距離を走破する「軍事教練」に近いものであり、特に江戸時代以前は門前の街道(磯街道、現在の国道10号)はまったく開通していなかったために裏山を大きく迂回するという厳しい物であった。