徐福
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徐福(じょふく)は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士[1]。斉国の琅邪の出身。別名は徐市(じょふつ)。子に福永・福万・徐仙・福寿がいるという。
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[編集] 概要
司馬遷の『史記』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述がある。
出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、浙江省寧波市慈渓市[2]が有力とされる。 途中、現在の韓国済州道西帰浦市(ソギッポ市:地名の由来は徐福が西(中国大陸)に帰って行った港との説もある。)や朝鮮半島の西岸に立寄り日本に辿り着いたとされる。
青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。 徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市などが有名である。
徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(名前の由来は不老不死か?)」という植物が自生する。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。
徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し[3]、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『富士古文献』は富士吉田市宮下家が保管していることから『宮下文書』とも呼ばれるが、この古文書は徐福が編纂したという伝承がある[3]。北宋の政治家・詩人である欧陽脩が日本刀について歌った『日本刀歌』の中には、「その先祖徐福は秦を偽って薬を取りに行くと言い若い男女と共にその土地で老いた」と言う内容のフレーズが出てくる。また、中国には徐福が神武天皇であるとする説もある。
1982年に中国において『中華人民共和国地名辞典』編纂の際の調査において、江蘇省にある徐阜という村が清の乾隆帝の時代以前に「徐福村」と呼ばれており、徐福にまつわる伝承や遺跡があることが判明した[4]。
伝説やストーリーについては、外部リンクもしくは徐福に関する書籍等を参照されたい。
[編集] 脚注
- ^ 方術に秀でた者・学者
- ^ 慈渓市は寧波市の中にある“市中市”
- ^ a b 『消された古代東ヤマト』 p103 前田 豊, 彩流社 ISBN 4882027909
- ^ 異色中国短篇傑作大全 p146, 講談社文庫 ISBN 4062649705
[編集] 関連文献
- 史記
- 富士古文献
- 宮下文書
[編集] 関連事項
[編集] 外部リンク
- 徐福伝説 奈良文化財研究所
- 歴史・伝説 財団法人 新宮徐福協会
- 公開講座 「徐福の足跡をたずねて」PART2 東アジア交流学院