広峯神社
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廣峯神社 | |
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所在地 | 兵庫県姫路市広嶺山52 |
主祭神 | 素戔嗚尊 五十猛命 |
社格等 | 県社・別表神社 |
創建 | 天平6年(734年) |
例祭 | 4月18日 |
主な神事 | 御田植祭 疫神祭 御柱祭 |
廣峯神社(ひろみねじんじゃ)は、兵庫県姫路市の広峰山山頂にある神社である。 全国にある牛頭天王の総本宮(ただし、八坂神社も牛頭天王総本宮を主張している)。 旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。別称広峯牛頭天王。天平の昔から名の見える古社である。
目次 |
[編集] 祭神
素戔嗚尊・五十猛命を主祭神として正殿に祀り、左殿に奇稲田姫尊・足摩乳命・手摩乳命、右殿に宗像三女神・天忍穂耳命・天穂日命ほかを祀る。
[編集] 歴史
『播磨鑑』には「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て」とある。天平5年(733年)、唐から帰った吉備真備が都へ戻る途中この地で神威を感じ、それを聖武天皇に報告したことにより、翌天平6年(734年)、白幣山に創建されたのに始まると伝えられる。(素盞嗚神社 (福山市)社伝によれば吉備真備は備後から勧請したという。)天禄3年(972年)に現在地の広峰山頂に遷座した。延喜式神名帳には記載がないが、『日本三代実録』貞観8年(866年)条に「播磨国無位素盞嗚神に従五位下を授く」との記述があり、当社のことと見られる。また、この牛頭天王という神は陰陽道にとって非常に重視される神であるが、創建者とされる吉備真備は陰陽師であったとされ、広峰神社が陰陽道と浅からぬ関係にあったものと推察される。
貞観11年(869年)、当社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)を分祠したとする説があり、貞応2年(1223年)の文書にも「祇園本社播磨国広峯社」とある。そこから祇園社(牛頭天王社)の元宮・総本社とも言われているが、八坂神社とは今なお本社争いがくすぶっている。また、当社から京都八坂神社へ祭神を分祠する際に通過して休憩したと言われる神戸の祇園神社や大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などのような神の移座の旧跡も存在する。三重の尾鷲神社などにも分祠している。
鎌倉時代から室町時代にかけては、当時多くの神社がそうであったように神官が御家人・地頭を兼ね繁栄した。「広峯三十四坊」といわれる社家が三十四家あったが、江戸時代以降は二十七家になった。 主な社家には、魚住・椙山・谷・西脇・肥塚・芝の名が見える。 なお湊川の戦いにも出陣、北朝の側についている。 黒田重隆(黒田官兵衛の祖父)にまつわる伝説が伝わっており、司馬遼太郎の歴史小説『播磨灘物語』にも採り上げられている。
また、近世以降、播州の人が「伊勢参り」するとき、まず広峯神社に参拝してから出発し、帰ってくるともう一度社参した。これを「二度廻り」といい、この慣わしは昭和初期まで続いた。
[編集] 文化財
室町時代造営の本殿は入母屋造りで、内陣・外陣を分け、奥まった位置に正殿・右殿・左殿を配した独特の構造である。拝殿と共に国の重要文化財に指定されている。
- 重要文化財(国指定)
- 県指定文化財
- 広峯神社古文書
- 宝珠図絵馬
- 市指定文化財
- 氏重刀
- 御田植祭
[編集] 主な祭り
- 御田植え祭(4月) 姫路市の無形民俗文化財に指定。
[編集] 交通アクセス
[編集] 鉄道
[編集] バス
- 姫路駅から神姫バス4系統「広峰」行で「広峰」下車、徒歩登山40分。但し4系統は1時間毎の運行なので、南方を頻繁に通る各系統に乗車、「白国南口」で下車して「広峰」バス停まで約1km歩き足すのがよい。
- 「広峰」行以外に「白国南口」を通るのは、3系統「大寿台団地/姫路獨協大学」行、81系統「江鮒団地」行、82系統「古法華公園」行、84系統「粟賀」行、85系統「瀬加」行、84・86系統「福崎車庫」行。
[編集] 道路
- 市街地から兵庫県道518号砥堀本町線を北上、山道を登る。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 関連項目
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